冤罪の作られ方

水俣病から始まって、地下鉄サリン事件、松本サリン事件と河野さん冤罪事件と続き、今は主に冤罪に関する書籍を読んでいます。ブログに一冊一冊書けばよかったのですが、書かずじまいでした。そこでまとめて今回、冤罪に関してその類型を書きたいと思います。
何故冤罪が起こるのかですが、そのプロセスを考えると、方程式が見えてきます。すなわち、
 犯罪が起きたものの、物証が少ない。
犯人が捕まらず、警察への批判が高まり、警察が焦る。
 警察は何とかして解決すべく、ターゲットを絞り、でっち上げてでも逮捕する。
これでは、犯人にでっち上げられた人はたまったものではありません。しかも、半ば強制的に自供させた自白調書を検察も裁判所も優先的に採用して、人権もくそもなく、有罪にしてしまう恐ろしさ。
再審無罪となった事件はもとより、第一審は無罪だったのに、検察が面子で控訴し、控訴審で有罪となり、最高裁は形式審査のみで有罪判決するという、これまた無責任な司法制度。三審制とは名ばかりの、警察・検察・裁判所という司法権力の人権を無視した行為により、どれだけの冤罪が作られてきたことか。
今、甲山事件と二股事件に関する本を読んでいますが、いずれも権力を振りかざした無法な操作が繰り広げられ、冤罪被害者の人生を無茶苦茶にしたにもかかわらず、司法権力はだれも責任を取らないことには怒りを覚えます。
甲山事件は、神戸市の知的障碍者施設で発生した入園者死亡事件。三日の間に2名の入園者が浄化槽に転落して死亡した事件。学園職員間の人間関係なども絡み、たまたま10~20分ぐらいのアリバイが不明確な22歳の女性職員が加害者として取り調べを受け、強引な警察の取り調べで自供したものの、すぐに否認し、検察が不起訴とするものの、遺族が検察審査会に申し立てたことから起訴が決定し、地裁無罪。検察が控訴し、控訴審では一審原判決を破棄して、地裁に差し戻し。地裁でまたも無罪判決。検察が控訴して、控訴棄却、同じく上告も棄却し、やっと無罪が確定しました。1974年の事件発生から完全無罪獲得までなんと25年の歳月を要しました。これだけの年月の山田悦子さんの人生を奪った警察・検察権力ですが、謝罪の一言もありません。
二股事件は、これまた特異な刑事が登場しますが、今日はこの辺で筆をおきます。
今日はこの辺で