事件への憤り

会津若松の高校生による母親殺人事件は、依然として真相が分からないようで、結局精神鑑定の結果を待つほかないようです。はっきり言って、精神が異常でなければ出来ない犯行であり、病気のせいにするしか解明の術がないのではないかと思います。
愛知県の人質立てこもり事件は、その後の報道で警察の対応が相当たたかれています。今日がなくなった巡査部長(特進で警部)の葬儀でもあり、警察への非難が犯人への憤りと同じように吹き上がっている感じです。
先ず犯人ですが、殺意はなかったと言っているようですが、何をかいわんやです。拳銃を発砲し、自分の子供を含めて3名を負傷させ、1名を殺したのです。拳銃を発砲しておいて殺意はなかった、などと白々しいことがよく言えたものです。この犯人にはとことん憤りを感じます。裁判では極刑を言い渡してほしいものです。本来であれば警官が突入して、犯人を射殺していてもおかしくない事件なのですから。
次に警察の対応です。警察と言う組織は絶対に自分の非を認めない組織です。これはある意味理解できます。犯罪を取り締まるべき組織が自分の非を認めていては、世間に顔向けできない事情はあります。したがって、かつての警察不祥事においても、裏金作りなどを除く犯罪捜査に関する事件に関しては、一旦非を認めたとしても、後の裁判等では一転して認めない例が数多くあります。今回も、打たれた警官を6時間も放置して、もたもたしたことに関して、非は認めていません。しかし、こうしたもたもたした対応が、結果的には若い警察官の命を奪ったことは事実です。常識的に考えれば、幾重にも盾を作っていけば、撃たれた警官をもっと早く助けられたはずです。こうしたノウハウは、例えば警視庁に知恵を借りればすぐに対応できたはずです。日本の各警察本部、警視庁間の連携のなさを露呈しているように見えて仕方がありません。警察はもっと市民の安全を守り、犯罪を防止し、そして発生したら迅速に対応することを学んでほしいものです。
警察小説の読みすぎかな?
今日はこの辺で。