映画「それでも僕はやっていない」鑑賞

周防正行監督の、「シャルウィーダンス」以来10年ぶりの監督作品「それでも僕はやっていない」を息子と一緒に観てきました。息子には前に東京地裁に傍聴に連れて行ったことがあったので、今回も誘ってみたところ行くと言ったので、是非見せたかったため一緒に行きました。
映画の中でも傍聴オタクが出てきましたが、私も一時期平日会社を休んだときなど、よく傍聴に行っていた時期があります。そんな訳で、裁判のいい加減さというものには若干知識があったつもりですが、今日の映画を見て、再認識しました。周防監督は3年以上綿密に日本の裁判制度や裁判の慣習を調べて映画を作ったということで、この映画の90%は当たっているのではないかと思います。ただ、犯行を本人が否認する裁判は極めて稀なので、10%は私も言い切れないところがありますが。
この映画での最大のポイントは、裁判官が途中で代わることです。日本の裁判官は、法の番人とは言うものの、あくまでサラリーマンです。サラリーマンである以上、転勤もあれば昇格のあります。勿論左遷といった懲罰人事も当然あるでしょう。また、1人の裁判官が抱える事件の多さも大変なものです。したがって、通常の裁判は極めて事務的な公判と、事務的な手続きで進行するのがほとんどです。そんな中、たまに否認事件を受け持つことになると、裁判官自信がうんざりするのではないでしょうか。無罪の人間を裁くというのは、良心を持つものならば当然悩みます。悩めば時間が費やされ、忙しさが増えます。すると、「たかが初犯の痴漢事件、どうでもいいや」となることも十分に考えられるのです。こうして1人の人間の人生が狂ってしまうことになります。でも、例え誤審をしたとしても、裁判官が罪を問われることはないのです。
最後に主人公が思うこと、「僕は裁判官が誤りを犯したことを知っている」。
大変に考えさせられる名画でした。
今日はこの辺で。