森炎「教養としての冤罪論」

弁護士の森炎氏著「教養としての冤罪論」読了。

著者は元裁判官で、裁判実務および裁判所の実態について十分ご承知の方で、特に冤罪が生まれる最も大きな責任が裁判官にあるとの考えを主張する方。裁判員制度における重大事件に対して、裁判員が持つべき正しい認識について説いています。

本書の内容のうち、哲学的な部分については私の頭では理解がおぼつきませんでしたが、実際の過去の冤罪事件を取り上げて、その事件における「C&Pダイアグラム」=5W1H(本書では6W(Who・When・Where・Whom・What・How(HowのW))に置き換えて妥当性があるか否かを判断基準にすることの合理性についてはよく理解できました。

現実の裁判における職業裁判官の判断が、ちゃんとこの6Wに基づいて証拠で立証しているかとなると甚だ疑問です。いわゆる状況証拠を積み重ねて、「・・・・であるとは言えない」「・・・・であると否定できない」と言った判決文が如何に多いことか。それによって極刑の死刑判決を受けることの重大性は計り知れません。それでも現行裁判制度では、いくら冤罪判決を出したとしても裁判官が責任を取ることはありません。

本書の後ろの方で、袴田事件の主任裁判官をつとめた熊本典道にふれ、死刑判決を書かざるを得なかったために、すぐに裁判官を辞め弁護士となるも、その後も罪の意識にとらわれた人生を送っていることが語られているが、他の二人の裁判官はどんな思いであったか。

本書では、先に述べたように警察・検察ではなく裁判官の責任を追及し、裁判員裁判では決して職業裁判官の知見を信じてはいけないこと、自分で6Wをに置き換えて事件を考え、そこになんら矛盾なり、不信がないかを見極め、う「疑わしきは被告人の有利」を貫くべきとときます。

一方提案として、飯塚事件のような冤罪が疑われるものの死刑が執行された事件もあり、有罪無罪を決めることと、量刑の程度を決めることを分離して考え、少なくとも何らかの冤罪の疑いのある事件については、極刑ではなく終身刑、日本では仮釈放のない無期懲役を選択できる仕組みが必要と訴えます。司法殺人は決して許されるものではなく、これも一つの方法であると思うのですが、今の日本の司法制度では極めて難しい改革ではないかと感じた次第です。

今日はこの辺で。