秋山賢三「裁判官はなぜ誤るのか」

24年間裁判官に従事し、その後弁護士となった秋山賢三氏著「裁判官はなぜ誤るのか」読了。新書の200Pなのですが、かなり読むのに時間を要しました。読んでいて感じたのは、裁判、裁判官への失望です。秋山氏本人が言っているように、裁判官時代と弁護士になってからでは、裁判に対する視線が全く違ってくること。端的に言えば、司法官僚たる裁判官は、罪を裁くという非常に重大な責任を持っているにも関わらず、被告人の人格なり人生を全く見ておらず、一サラリーマンのごとく、人事評価を気にしてただひたすら仕事をスピード感をもって「こなしていく」だけだという悲しき種族であるということ。これは勿論検事や警察官にも言えることですが、裁判官は最後の砦であるにもかかわらず、否認事件にあっても聞く耳持たずで、ただ検事の筋書きに則った被告人の供述調書を鵜呑みにして、間違っても自分たちは法律で罪に問われることはないことを盾に、「疑わしきは被告人の利益に」など目もくれず判断しているロボットのようなもの。どうしてこんな裁判官ばかりが増殖してしまったのかについて、秋山氏は、

①仕事が多すぎる(年間300件~400件/人)の手持ち・処理事件数

最高裁事務総局の人事評価は件数処理のスピードと最高裁の意向を忖度した判決

③評価が悪ければ、任地や給与待遇でしっぺ返し

それにしても、こうした裁判所組織の起源はどこにあるのか。

これは私の私見ですが、終戦直後の国鉄3大事件のうち、三鷹事件松川事件が、いずれもGHQの関与が疑われ、共産党の躍進に脅威を抱いたアメリカ政府の意向が日本政府に伝えられ、謀略が仕組まれた可能性があり、その裁判がまたGHQの圧力が政府を通して裁判所にあったと言われますが、こうした圧力に弱い体質が未だに日本の裁判に影響しているのではないかと思うのですが。

とにかく、世の中には冤罪に苦しむ被害者がたくさんいることは確か。これを食い止めることができない今の裁判官では、裁判の意味がないのではないか。

秋山氏が語るように、裁判官は世間的には尊敬されるべき存在ながら、その実態は65歳の定年まで勤めたとしても、やることは一緒。「調書を読み、判決を書く」ことが続くだけ。それも家に仕事を持ち帰って。今のセキュリティ上の問題を考えると、少し変わっているのかどうかわかりませんが、とにかく基本的には上司からも干渉されない職業なので、勝手気ままはいいのですが、自分ですべてやらなければならないのは苦痛でしょう。役所や一般企業のサラリーマンで、管理職になり、部下に仕事をやらせているだけの方がよっぽど楽。いくら頭が良くて、東大法学部を出ていても、一生実務に携わらなければならない仕事が果たして尊敬に値する職業なのか?

今日はこの辺で。