岩瀬達哉さんはジャーナリストで、年金問題に詳しいようですが、その岩瀬氏が現職・OB裁判官100名以上を取材して書き上げたのが本書。OB裁判官が書いた現在の日本の裁判所・裁判官の問題を扱った書籍もありますが、ジャーナリストの観点から書いた本書も、非常に優れた内容となっている。備忘録的に章を追ってキーワードだけでも書いてみたい。
第一章 視えない統制
まず出てくるのが東京高裁の岡口判事。ちなみに本書に出てきたので早速岡口氏の著作「裁判官は劣化しているのか」を読書中です。岡口氏については、裁判官でありながら不適切なブログやfecebookでの言動が新聞にも掲載され、どちらかというとマイナスイメージを持つ方が大半だと思いますが、実は極めて保守的で上ばかり気にするヒラメ裁判官が多い中、彼はそれを打破戦とばかりに頑張っていることがわかりました。いずれにせよ、裁判官は誰からも干渉されずに、自分の良心に従って判決を下すはずが、偏に無罪判決など出すと、人事上不利な処遇を受けることが確実であることから、統制されていることが明らか。「視えない」ではなく「視える」統制としたほうが正しいのではないか。
第二章 原発をめぐる攻防
住民の原発訴訟は100%敗訴していたのですが、2011年3.11震災前の2006年、原発の運転停止を判決した勇気ある裁判官がいました。金沢地裁の井戸謙一裁判長がその人。当時52歳でしたから、定年まじかで先のない裁判官ではありません。北陸電力志賀原発の安全対策が不十分という判決でした。この判決は、当然というか二審で覆されますが、電力会社が一斉に耐震基準を見直すという大きな効果がありました。福島原発事故以降は何件かの住民勝訴はありますが、最高裁は二審で覆すべく、裁判官を異動させてまで工作を図る。そして、運転停止判決を出した裁判官は左遷されることが繰り返されています。結局裁判官には判決の自由が奪われていることが明らかです。
第三章 委縮する若手たち
2001年10月、大阪地裁の平野哲郎裁判官が育児休業を取ろうとしたところ、上司から処遇が悪くなると脅された事件が発生します。それでも取得をあきらめなかった結果、迷惑をかけて申し訳ありませんというような趣旨の「上申書」なるものを書かされたとのこと。それだけでなく、仕事から干され、嫌気がさして育児休業明けに依頼退職してしまう。これが裁判所の閉鎖的な実態。国民の人権を守らなければならない裁判所がこれではとあきれるばかりです。こうした事例はいくつもあり、若手配宿せざるを得ない状況となってしまっている。
第四章 人事評価という支配
かつて刑法には尊属殺人罪があり、下級審では違憲判決が何度か出ていたようですが、最高裁はことごとく却下し続けてきたが、1968年に起きた栃木県で起きた事件の一審で違憲判決が出ました。しかし、二審では合憲とされる。この事件の悲惨さが大々的に報道され、最高裁大法廷で14:1で違憲とされ、その後刑法も改正されました。この二審判決を下した高裁裁判長はおそらく人事評価を気にしたのでしょう。意見の判決はそれだけ裁判官の人生を左右するシステムになっていることの悲しさ。
裁判官は法律で意に沿わない転勤は拒否できることになっているが、現実には不可。拒否したなら、家裁や地裁の渋巡りを強いられる。勿論最高裁の意に沿わない判決をしようものなら、人事評価が低く抑えられ、給料も上がらないシステム。
第五章 権力の中枢・最高裁事務総局
現在の裁判所の非現実的な硬直性の総本山とされる最高裁事務総局。裁判官に任官したものは裁判所で判事として裁判を進行し、判決を下すのが仕事のはずですが、実はその裁判官の本来の仕事はほんのわずかで、最高裁事務総局でその人生の大半を過ごす方々もいます。この方たちはエリート中のエリートで、裁判ではなく、政府や国会対応などを行い、予算取りや国会答弁で評価されたものが最高裁判事や長官になっていきます。すなわち、裁判の経験が少ないにもかかわらず、裁判官を支配している構図です。彼らは、いかにっ前例を踏襲して波風を立てず、あるいは財務省と交渉して予算を確保することで支配階層に上り詰めていきます。当然上司から嫌われたらそれでおしまい、飛ばされます。保守的になるはずです。
第六章 「平賀書簡問題」の衝撃
札幌地裁で審理された「長沼ナイキ訴訟」。当時の福島重雄裁判長は青法協の会員で、憲法重視のかた。彼が下した判決は「自衛隊違憲」。この判決を下す前に、地裁の平賀所長が福島裁判長に暗に判決内容を変えるような書簡を送っていた事件。裁判官は判決に際して干渉されないのが大原則ながら、その禁を破ったことから、大騒動になった問題。ここから派生して、青法協が左派の思想集団扱いされ、会員に対する弾圧が加えられます。
第七章 ブルーパージが裁判所を変えた
長沼ナイキ訴訟前後から、青法協への弾圧が大きくなります。代表的な事件として「宮本判事補再任拒否事件」があります。裁判官は10年ごとに再任審査があり、それまでは再任が拒否された例は、不祥事以外はないのですが、青法協活動を主導してということで宮本康昭裁判官が再任拒否されます。その後、再任拒否はありませんが、人事上の処遇を悪くして委縮させ、青法協も解散となります。こうした動きから、裁判所は決定的に変わったといわれます。
第八章 死刑を宣告した人々
第31条 「何人も、法律の定める手續によらなければ、その生命若しくは自由を
奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」
新憲法となり、死刑廃止のチャンスもあったが、GHQで日本の新法の審査を担ったオプラーは、未だ日本には死刑が犯罪抑止効果があると判断し、存続することになり、未だに議論はあるものの、どちらかというと厳罰化の国民感情が勝り、死刑廃止には至っていない。憲法上の死刑の位置づけだが、
この条文により、法律に定めがあれば生命を奪える=死刑容認ことになっている。
一方で、
第36条 「公務員による拷問及び殘虐な刑罰は、絕對にこれを禁ずる。」
この条文により、残虐な刑罰は禁止されている。
日本に死刑は「絞首刑」であり、これは残虐ではないと解されている。ちなみに残
虐なのは、「火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆで」と言われる。
しかし、死刑現場に立ち会った元検察官(検察官は死刑に立ち会う義務があるとの
こと)の土本武司氏は、その残虐性を生々しく語っている。
死刑宣告を行う裁判官には、やはり相当なストレスがあり、上級審で再度判断して
ほしい旨、法廷で言う裁判官もいるとのこと。
いずれにせよ、刑法で死刑が定められており、最高裁の死刑にする基準もあること
から、その裁判に行き会った裁判官が判決を下さなければならない。司法官僚とし
て、ほとんど死刑裁判などに行き当たらない裁判官には、その巨大な精神的負担を
理解することはできないでしょう。
厳罰化の動きは山口県光市の事件が世論を盛り上げ、18歳の少年の無期懲役を差
し戻して、高裁が死刑、最終的に最高裁が上告を棄却して死刑が確定した。こうし
た動きからも、日本から死刑がなくなる日は当分ないと思われます。
第九章 冤罪と裁判官
白鳥決定で最新の幅が広がり、1980年代には4件の死刑冤罪事件の再審で無罪確定判決が出たが、その後はまたもや最新の壁は高くなり、袴田事件でさえ、地裁が再審決定したものの、高裁は棄却。人の命よりも自分の身分のほうが大切と思う風潮はさらに高まっている。
死刑は極刑で、執行されてしまえばその人の命は永遠に生き返らない。被告人が犯罪を認め、客観証拠もそろっているならば、死刑も法律上許されるのは当然。しかし、世の中には否認事件、客観証拠もない事件がままあり、警察・検察は犯人を特定しなければならないという内外からのプレッシャーがある。警察・検察は、真犯人を捕まえる努力をするのではなく、偽犯人を作り上げて起訴し、裁判官は真実を見抜くのではなく、検察を妄信してしまうところに冤罪が生まれる大きな要因がある。それでも裁判官は責任を取ることもなく、謝罪もしない。第八章で死刑宣告への精神的負担を感じるのであれば、悩むことなく「真実を見抜く」力を発揮すべきなのですが、今の司法官僚支配下では、「絶望の裁判所」と言わざるを得ない。
第十章 裁判所に人生を奪われた人々
大阪東住吉で発生した火災事故で娘を失った青木恵子さん。警察は当初事故としていたが、娘に保険金をかけていたことから、殺人事件として立件。青木さんは主犯として逮捕され、一貫否認するものの誘導尋問で自白、その後否認に転じたものの、地裁・高裁・最高裁で有罪・服役。服役後に再審請求し最終的に無罪を勝ち取るが、この事件でも警察・検察はマスコミに情報をリークして青木さんを極悪人に仕立て上げ、裁判所も警察検察の主張通りに判決。上告審では疑問を持つ裁判官もいたが、最高裁調査官に邪魔され、その意見も表に出ることがなかった。誤判をした裁判官はその後出世しているのは、なんとも理不尽である。
第十一章 ねじ曲げられた裁判員制度
裁判員制度は、裁判官という狭い世界しか知らないプロだけでなく、広く社会一般
の意見を判決に反映させることを目的としてできた、と思い込んでいたのは間違
い。実は最高裁の真の目的は、誤判をした場合に、裁判官・裁判所に来る批判を裁
判員のせいにできるから。これが本当なら、裁判員はいい迷惑。
第十二章 政府と司法の暗闘
衆参両院の選挙における一票の格差問題は、選挙があるたびに弁護士等から憲法
違反として無効を求める公訴が続き、「違法」「違法状態」などの判断が裁判所から
下されている。この問題は、立法・行政に対する司法の重要な役悪だが、最高裁は
決して「違法」の判断はしていない。あくまで「違法状態」だから早く是正してく
ださい、という助言程度の判決。結局司法は国の立法・行政に口を挟まないという
自制のコントロールが効いているとしか言いようがない。