重松清「疾走」にみる孤独

重松清の「疾走」を読み終える。かなりの長編であり、重松にしては珍しい、どちらかと言うと悪人ばかりが出てくる暗い話。重松のイメージがどうしても直木賞作「ビタミンF」のような、人生の機微と哀歓を描いた作品をイメージするせいか、ちょっと異質な作品です。どちらかと言うと、「ナイフ」の延長線にある作品。
主人公の少年にはこれでもかこれでもかと言うように不幸の連鎖が続き、最後は15歳の短い生涯を閉じるというお話。15歳でこれだけの経験をすること自体異常ではあるが、一つの不幸をきっかけに不幸の連鎖が襲い掛かること自体はよくあることでしょう。主人公の少年には3人だけ心を許せる、または彼を理解してくれる人間が出てくる。そしてその3人とも大きな不幸を背負っている者ばかり。この物語は不幸と孤独の中を疾走し、短い生涯を閉じる少年=シュウジ=「おまえ」のなんともやりきれない心を表現したものでした。
やくざは別格にしても、少年の両親をはじめ、友達、教師、親戚等、出てくる人間がみんな少年を孤独へと追いやっていく設定。少年自身が彼らに訴えかけることがなく、諦めの境地で接していることにも、問題があるように思う。人間の社会はそんなに冷たい人ばかりではないはず。自分から心を開いていかなければ相手も心を開かないでしょう。孤独と言うのは、結局自分が作り出しているのではないでしょうか。
今日はこの辺で。