亀井洋志「どうして私が犯人なのか」

亀井氏はサンデー毎日週刊文春専属記者を経て、現在はフリージャーナリスト。特に刑事司法関係に詳しいジャーナリストで、そんな亀井氏が、冤罪がいかにつくられているかを、謡的事件の取材を通して怒りを込めて記したのが本作「どうして私が犯人なのか」。

高知白バイ事件」は交通事故冤罪として有名な事件。駐車場から幹線道路を右折するバスに高知県警の白バイが高速で衝突して白バイ運転手が死亡した事件。バイクを一般人が運転したならば、単にスピードを出し過ぎたバイクが信号を無視して突進した事故として処理されたであろう単純な事故。しかし、警察というところは何が何でも身内の過失にはしたくない恐ろしい組織。バス運転手という一般人の人生を破壊してまで身内と組織を守るために、タイヤ痕を捏造までして、そして身内の目撃者を仕立て上げまでして、冤罪を作り上げてしまうのだ。検察は警察の嘘を丸呑みし、裁判所は警察・検察が捏造するはずがない、あるいは逆らいたくないというおぞましい保身の結果、バス運転手を有罪にしてしまった事件である。バスに乗っていた生徒の証言は無視して、身内の証言だけを信じ、何ら科学的根拠もない捏造スリップ痕を証拠とする刑事司法とそれを追認する裁判所の判断には呆れるばかりである。第一次再審も門前払い同然の扱いで、今後も苦しい戦いが続く。なお、バス運転手の方は1年4カ月の禁固刑を終了している。

エスカレーター盗撮事件」は、エスカレーターで携帯電話を操作していた中学校の非常勤講師の男性が、上の段の女性のスカート内を盗撮していたとして現行犯逮捕された事件。

男性は恋人に電話したが、留守電音声だったため通話できなかった。エスカレーターが上段に着いた時に、前の女性から声をかけられ、現行犯逮捕となった。本人は否定したが、痴漢同様こうしたケースでは女性の声が断然信用されやすく、拘束され自供してしまう。その自白調書は飲酒による酩酊状態だったため、翌日確認するとそんなこと言うはずがないとして否定。公判でも否定するが、男性の声は聞き入れられず、警察→検察→裁判所と、正にエスカレーター式に有罪確定。携帯には写真のをとった形跡がなく、途中で盗撮から盗み見に罪状が変わる始末。物的証拠は何もなく、証言も女性本人のものだけ。これだけで男性の人生は大きな打撃を受けてしまうのだ。

「百貨店返品トラブル傷害事件」は、私の解釈としてはデパート側がしつこいカスタマーハラスメントと解釈した事例ではないかと感じた。暴力があったかなかったかはわかりませんが、コメントは避けたい。

特別養護老人ホーム不明金事件」は、特養に女性経理事務員がデイホーム利用者の利用料を横領した嫌疑がかけられ、有罪となった事件。合計3,000万円の利用料がなくなったという事件を調査してくれと頼まれた事務員が、その調査する中で確かに不明金が発生していることがわかる。そのお金を着服できる人間は限られており、女性事務員としては範囲を特定できるが、何故か事務員自身が有力容疑者にされてしまう。結局彼女の容疑は10万円弱の金額とされるが、それでも自分は何らやましいところがない。取り調べの中で、夫が部落出身であること、息子の縁談が危うくなるなどの恫喝を受けるが、公判ではその刑事はすべて否定。本書では金の流れをどこまで調査したのかが詳しく書かれていないが、3,000万円近い金を女性が着服していれば、何らかの証拠が出てくるはず。結局真犯人は闇の中なのである。

「痴漢冤罪国賠訴訟事件」は、電車の中で携帯で話し続ける若い女性を注意した中年男性サラリーマンが、電車を降車してからその女性に痴漢されたと訴え、現場逮捕された事件。電車は座席はすべて埋まっていたものの、痴漢をできるほどの込み具合ではなく、当然に目撃者などいない。唯一の証人は、女性が携帯で話していた相手の女性。その女性にしても、聞いたのは男性が注意した声だけ。女性の逆恨みとしか考えられないが、それでも容疑を否認したため、21日間拘留される。結局検察の取調に女性が3回もすっぽかしたりし、嫌疑不十分で釈放。男性は国、都、女性に損害賠償を求め提訴。地裁・高裁は刑事裁判で起訴しなかったにもかかわらず、女性の言い分には相当の信憑性ありとして原告敗訴。上告審では差し戻され希望が見えたが、結局高裁は再度敗訴。最高裁も却下して13年間に及ぶ男性の裁判は終了した。裁判官の無能、無恥が露呈し、男性の13年間は全く無駄となってしまった。一言の注意がとんでもない女性の嘘にまんまとはまってしまった。この女性はどんな気持ちで生きているのか?ぜひ聞いてみたいものである。

「酩酊冤罪窃盗事件」は、職場の仲間との懇親会で酩酊状態となった29歳の男性が、電車を乗り過ごして終点の品川駅で降りたとき、隣にさっきまで一緒に飲んでいた先輩がいると錯覚し、先輩タクシー代ありますか、と声かけしたところ、カバン、カバンと反応したため、カバンを探ると封筒に現金が入っていたため現金を自分のポケットに預かり、自分のかばんは先輩に預け、タクシー乗り場を探しに離れた。そんな場面を目撃していた鉄道警察隊員に見とがめられ、現行犯逮捕となる。先輩と思っていたのは全くの他人。確かにこの場面を見れば黒かもしれない。しかし、逆にこの事件は控訴審で逆転無罪を勝ち取る。酩酊状態であれば、他人を知り合いと見間違える可能性があるという医師の証言が決め手になった。ただし、この事件でも警察官の信じがたい嘘証言が裁判で語られ、一審では有罪判決を受けている。控訴審で無罪となるのは異例中の異例と言わざるを得ない。

「女性ドライバー交通事故冤罪事件」は、娘さんを自宅まで送るため自家用車を運転していた62歳の母親が、幹線道路の青信号を通過しようとしたとき、自転車に乗った男性が飛び出してきて衝突、男性が死亡した交通事故事件。事故から1か月後、警察から呼び出された女性は、目撃証言があり、幹線道路ではなく市道を右折する際の事故ではなかったかと言うのである。全くの寝耳に水の言葉に唖然とするが、二人の証人がいるとのこと。

検察に起訴され一審は無罪ながら高裁で有罪、最高裁でも却下される。左折して衝突した場合のガラスの損傷など、物的には考えられない事故という専門家の意見も全く聞き入れられず、二人の目撃証言、それもバイクとトラックに乗っていた人の証言が、非常に詳細な内容で証言されたのも疑問があったが、裁判所は警察と検察の言いなりなのだ。一事不再理で、一審で無罪になったら、本来は上訴すべきではないのだが、日本の裁判はおかしな制度がまかり通っている。

「官僚裁判官の自白神話は変えられるか」は亀井氏の裁判官評。豊橋事件は1970年に文具店の母子3人が殺人・放火で亡くなった事件。3か月後に文具店の21歳の店員が逮捕される。当初否認するが5日後には全面自白する。相当厳しい取り調べがあったことが想像される。一審の第2回公判から否認に転じるが、店員には不利な情勢。しかし、当初から警察内では無理筋操作との意見があり、エース刑事がシロとしたが、放火を操作する刑事たちが黒にするための筋書きを作っていく。結局、一審で元刑事の証言などがあり年後の無罪判決が下る。

この事件に見られるように、警察、検察の現場でどんな取り調べが行われているかとの認識が裁判官には全くと言ってないのが実情。したがって、豊橋事件での元刑事の証言などで初めて無罪の結論が出てくる。証言した元刑事に言わせると、犯人でなくてもかあれば落とせるという言葉は現実なのである。

自白尊重は警察・検察・裁判所が神話のごとく信じている妄想のようなもの。これが亡くならない限り、冤罪はこれからも起こりうるし、自分もその被害者となるかもしれないと思うと恐ろしい。

今日はこの辺で。