少し古い話になるが、昨年(2012年)9月27日、横浜地裁で、とある刑事事件の公判前整理手続き中に、高野隆弁護士が持参したパソコンの電源を裁判所のコンセントに繋いだところ、景山太郎裁判長が「皆さんだけに電気の使用を許すわけにはいかないので。国の電気ですから、私的とか、仕事上かもしれないけど、自前の電気でやってください。そのように各地の裁判所でもしています。公判前整理手続で電気を使うのは筋違いだと思います。」と述べ、法廷内の電源の使用は許されない旨の注意をしたとのちょっとした事件があった。高野弁護士はその場で異議申し立てを行い、景山裁判長が却下、高裁、最高裁にも抗告申立したが却下された。結局景山裁判長が謝罪して決着したのであるが、こうした裁判官が未だに存在することに違和感を持たざるを得ない。憲法32条は、裁判を受ける権利を保障し、37条は、刑事被告人に弁護人依頼の権利があるとし、依頼できなければ国が国選弁護人を付けることを保障している。そして弁護士は、被告人の利益を最優先に弁護する義務がある。その被告人の有利な裁判を行うためのパソコン使用は、今や裁判の世界でも一般化している現状がある。にもかかわらず、今時景山氏のような考えを持っている裁判官が存在していること自体、裁判の当事者たる被告人や弁護士にとって、恐ろしいとしか言いようがない。こんな裁判官に裁かれざるを得ない被告人は不幸と言わざるを得ない。
当会会員で弁護士の後藤富士子先生が、シリーズ11号やブログで盛んに訴えておられますが、日本における司法制度、すなわち、司法試験合格者が一斉に司法修習を受け、その後判事、検事、弁護士に進み、判事、検察官は司法官僚として歩むが故に、在野の市民感覚なり市民感情なしに司法を担うという、「司法一元化」不整備なままの体制がために、特に裁判官は一人孤高な存在として閉鎖的な世間知らずの人格形成がなされてしまうという欠陥が生じてしまう現象が発生する。景山判事は、元々が検事出身で、その後裁判官となったようですが、やめ検弁護士よりも質の悪いやめ検裁判官で、被告人=犯罪者を頭から信じ込むタイプではなかったか。端から弁護士の活動を全く理解しない輩なのではないか。
判事なり検事は、弁護士経験をした者から選出されるようなシステムが、日本の司法を救う道ではないのかと思った次第である。
今日はこの辺で。