伊兼源太郎「地検のS(エス)」

読んでいて、横山秀夫の小説ではないかと錯覚を覚えるほど、その語り口が似ていると感じた作品、伊兼源太郎「地検のS(エス)」読了。伊兼氏は1978年生まれというから、まだ44歳ぐらいの方。2013年、今から9年前というと彼が30代半ばで書いた「見えざる網」で横溝正史ミステリー大賞を受賞しているので、それなりの知名度はあるのでしょうが、恥ずかしながら、私がその名前を知るのは今回が初めて。したがって、彼の作品を読むのも初めてでしたが、横山作品のファンとしては、その語り口やストーリー展開はすばらしく、うれしい発見でした。また一人読む作家が増え、これからはまりそうです。

本作「地検のS」のSは誰なのか?普通であれば検事と思うのですが、伊兼がSに指名したのは、かつては検察事務官を経験し、今は地検の総務課長の役職にある伊勢という男。司法関係の役所においては、法務省を含めて、司法試験に受かった人とそうでない人とのヒエラルキーが顕著であることは周知の事実。したがって、いわゆる検察事務官を含めて一般職員と呼ばれる方たちが小説の主人公になることは少なく、活躍の場も無いのであるが、総務課長という司法資格のない人間を主役級に扱うところが何ともユニークであり、しかも非常に読み応えがある話が展開される。

五話の連作短編形式で構成され、架空の湊川地検の総務課長=S=伊勢が、各話で主人公となる人物に多大な影響を与えるという話となっている。

「置き土産」は、地裁の司法記者クラブの一員である東洋新聞の沢村は、実績=特ダネをものにして本社政治部への異動を希望する記者。同じ司法クラブ所属の他社記者が特ダネを出したことから、上司にプレッシャーをかけられ、特ダネをものにしないと政治部への転勤はないと脅され、必死に事件を探し、ある小さな窃盗事件の裁判に出くわす。その裁判には伊勢が傍聴していたことから、裏に何かあるのではないかと、事件の真相を探っていく。そしてたどり着くのが、警察と地検による創罪(冤罪)。そこには、世話になった刑事のOBと伊勢が深く関与していた。沢村はすべてを知って、本来あるべき無罪の記事を書かず、特ダネはなし。しかし、伊勢から突然、暗黙のご褒美として別件の特ダネを受けることになり、これが「置き土産」となるのでありました。

「暗闘法廷」は、女性殺害事件を担当した森本検事の検察事務官である新田が主人公。被告人は裁判で訴訟引き延ばしと思われる戦法で検事に対して曖昧な返答ばかり。挙句に犯行を否認する始末。被告は検事調書では自白しているが、その自白調書を証拠とはしないように森本は次席検事に厳命されている。(この辺のところを私は読み切れていない)。

森本は湊川地検のエースとされ、東京地検特捜部への移動も近いとされる人材。しかし、伊勢からの何気ないアドバイスで、事件の裏に真相が隠されていることを察知し、検事調書を証拠申請し、被告の有罪が確定することに。森本は大分地検に飛ばされるのだが、新田はその真相を知ることに。ここでも伊勢のアドバイスが大きく影響し、優秀なる森本検事の証人のやくざとの駆け引きが大きな獲物を捕らえることになる。

「シロとクロ」の語り部は刑事事件に重きを置く弁護士事務所に就職した若手弁護士、別府直美さん。彼女が担当したのが25歳の不良青年の傷害致死事件。彼は自白しているが、警察の取り調べをこっそり録音し、それが法廷で証拠として提出され、違法な取り調べがあったことから無罪が濃厚となる。しかし別府は被告の人間性や、親が被告を懲役にしてほしいとまで懇願することから、無罪主張には躊躇している。そんな彼女のところに、伊勢が現れ、善悪と法律について何気ないアドバイスを受ける。別府は関係者を洗い直し、新たな証言から被告人が未だ更生していない「悪」であることを確信して、被告が共謀して振り込め詐欺をしていたことを調べ上げる。

「血」は、ある贈収賄事件を担当した女性検事の相川が主人公。小規模建設会社が有力政治家に贈賄した疑いで捜査を受け、その会社に勤務する永島という女性社員の口座を迂回した疑いがもたれ、相川が永島を任意で取り調べるが、誰からの入金かを語ろうとしない。永島はかつて夫の暴力を受け、子供にも暴力をふるった夫を包丁で刺し殺し、執行猶予判決を受けた過去があった。ここで伊勢が登場し、事件で悪を追及するには3つのS,正義・親身・真相について相川に語る。そして、永島がかつて罪を犯したときに検察事務官であった伊勢は、彼女を見続けてきたこと、そして再犯を犯すような人間ではないこと示唆し、もう一度永島の周辺を当たり、息子から10年前の母親の事件の真相にたどり着く。私としては、本作品が最も感動的な物語と感じた次第。

最後の「証拠紛失」は、伊勢の後輩の総務課職員、三上が主人公。彼は伊勢から贈収賄事件の証拠が紛失したため、誰が紛失したのか調査してほしい旨依頼を受ける。三上は優秀な事務官だが、将来的なことを考えて、鳥海という捜査を指揮する部長から伊勢の弱みを握れば将来を保障してやる旨の話に乗って、スパイ行為じみたこともやっている。3日間に紛失先を探すために関係者に聴取したりするうちに、三上の頭の中は混乱状態になっていく。伊勢に対して抱いていたある種のうさん臭さの原因を知ることによって、自分が進むべき方向を模索し続け、ついには決断を下すところで話は終了する。

地検総務課長である伊勢は、司法試験を簡単に受かる実力がありながら、決して検事にも裁判官にも、弁護士にもなりたくない大きな理由があったことが最終編で明らかになる。

伊兼源太郎という新たな作家を発見したことで、今後の読書人生が広がった気がしました。

今日はこの辺で。