麻生幾「戦慄 昭和・平成裏面史の攻防」

麻生幾思い浮かぶのが「外事警察」。公安や危機管理の題材を得意とする作家ですが、本書「戦慄 昭和・平成裏面史の攻防」はノンフィクションで、戦後の大事件の裏側をきめ細かに描いたもの。1956年生まれの私にとっての未知な事件は「下山事件」だけですが、各事件の裏には何が隠されていたのか、実際の修羅場はどうであったのかを知る上で貴重な作品でした。

本書の順番ではなく、年代順に追っていきましょう。

1949年「下山事件50年目の解決」

最近旧国鉄の方との交流があり、終戦間もない国鉄三大事件について知る機会がありました。まず下山事件があり、その後「三鷹事件」、「松川事件」という大事件が同じ1949年に発生します。世界は米ソの冷戦が始まり、中国共産党が内戦を制し、中華人民共和国が成立した年で、翌年には朝鮮戦争が勃発するという微妙な都市。日本を占領していたアメリカにとって共産主義勢力が最大の脅威となり、日本で活発化した左翼運動への弾圧も始まる時期でした。そんな中で起きた3つの事件は、いずれも容疑者として共産党員が浮上します。しかし事件は客観証拠が何もなく捜査は迷走。三鷹事件松川事件は多くに死者を出した事件で、容疑者には死刑判決が出るものの、三鷹事件では単独犯で非共産党員の竹内氏が獄死、松川事件では共産党員が上告審で無罪判決。この二つの事件は、未だにGHQ陰謀説が飛び交います。そして、結局犯人が挙がらず、大量解雇に思い悩んでいた下山国鉄総裁の自殺として処理された下山事件。本書では他殺説が主流であった警察の聞き込みで目撃証言が得られたことで自殺となりました。

 

1972年「あさま山荘攻防戦の亡霊たち」

現在の長野県佐久市に住んでいた私にとって、19722月、中学3年生だった私にとって、軽井沢で起きたあさま山荘事件は、学校から帰ってすぐにテレビにかじりついて見た思い出が残っています。時に最後の警官突入時の鉄球で壁を壊す場面は印象に残る場面。この事件については、若松孝二監督の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」などで映像化もされ、特にこの事件以前の総括と称する、仲間をリンチで殺していた事実が余計に事件の悲惨さを象徴的にしましたが、更にはその後に日本赤軍が起こしたクアラルンプールのアメリカ大使館占拠事件で超法規的に坂東國男が出獄するなど、尾を引きました。

三菱銀行事件もそうですが、人質事件は厄介なもの。一人人質となった管理人の女性は、9日間も耐え忍びました。但し、三菱銀行事件の梅川と違い、人質を殺害することは考えていなかったのは事実のようです。また、当時の警察庁長官後藤田正晴は、籠城犯人を生け捕りにせよとの言明を下していたとのことで、警察も苦労したでしょう。この事件で亡くなったのは警察官2名と、説得を試みると言って出没した民間人1名。坂東國男の父親も事件中に自殺しています。

あさま山荘事件と、その後に発覚した大量リンチ殺人事件が発覚し、左翼運動は急激に衰退。超法規的措置で坂東國男が出獄するなど、活動家は海外に活路を見出し、中東を中心に事件にかかわっていきます。

 

1976年「ベレンコ亡命で函館空港の一触即発」

当時ソ連のミグ25戦闘機は、世界最新鋭とされその情報を西側が欲しがっていたようですが、たまたま1976年にソ連空軍のベレンコ中尉が亡命のため函館空港緊急着陸して、その後アメリカに渡るまでの日本政府の右往左往を描写します。

先ずは着陸前に正体不明機が北海道方面に近づいてきたのをレーダーがつかみ、迎撃機を飛ばすか否かで一騒動、突然レーダーから消えて函館空港に着陸して一騒動、再度はミグ戦闘機を奪回又は爆破するためにソ連軍が侵攻してくるという情報に一騒動。実戦を経験していない自衛隊憲法との問題で重機を使うか否かの選択に何ら指示がない政府の対応など、日本のリスク管理の脆弱さを示してくれた一軒として貴重な事件でした。

 

1976年「田中総理逮捕へ ついに明かされるその突破口」

佐藤栄作の長期政権後の1972年に発足した田中角栄政権。就任後には早速日中国交正常化を実現し、絶大な支持を得たのですが、金脈問題が発覚し支持率が急降下、2年間の短期政権に終わる。その後1976年にアメリカから飛び込んできたロッキード社からの5億円の闇献金問題で、逮捕されることに。首相辞任後も田中派を率いて絶大な影響力を誇示してきた田中だが、天国から地獄に落とされることになる。田中逮捕のきっかけは丸紅の大久保、檜山の両幹部の証言。これを引き出したのが吉永祐介率いる東京地検特捜部。今も語り継がれる東京地検特捜部の勲章である。それに引き換え今の特捜部は随分力をなくしたものです。こんな状態では「秋霜烈日」のうたい文句がなくばかりです。

 

1979年「三菱銀行梅川事件の地獄絵図」

1979年は私が社会人になった年で既に40年以上の昔のことながら、凄惨な事件として、そして世の中にはこんなひどい人間がいるのかと、身を震わせた事件でした。本書では、実際に人質になった方たちがどんな酷いことをされ、恐怖を味わったかを克明に描きます。犯人の梅川昭美は事件当時31歳でしたが、15歳の時、既に強盗殺人事件を起こしていた過去があったが、少年法に守られ、1年半で少年院出ており、更にはその後猟銃所持許可も受けていた。42時間の籠城中行員2名、警官2名を容赦なく射殺、更に籠城した銀行内では、女子行員を全裸にしたり、怪我をした行員の耳を同じ行員に切り取らせたりなど、想像を絶する「ソドムの市」的な行動を繰り広げ行員に恐怖を与え、行員を盾にした防御態勢を敷く。あさま山荘事件の総括・リンチ殺人も地獄ですが、この事件もまた歴史に残る地獄絵を描きました。最後は警察特殊部隊の突入で射殺されて事件は終了しますが、この恐怖を経験した行員たちには、これまた想像を絶する後遺症が残る事件でした。

 

1982年「ホテルニュージャパン大火災 妻子を分けた20分」

英国人宿泊者のタバコの火の不始末が原因とされたホテルニュージャパンの大火災。赤坂の一等地の大ホテルの火災ということで大きな話題になり、その所有者、横井秀樹を天下の悪者扱いにしたことでも有名。9階で出た火は瞬く間に延焼し、33人の犠牲者を出しましたが、横井がこのホテルを手に入れたのは家裁の3年前。しかも、対人保険が3日前に切れており、経理課長が契約継続稟議を横井にあげていなかったという不運があったとのこと。こうしたことは確かに不運だったと言えるでしょう。しかし、消防署の指導に従わず防火設備を設けなかったことや、報道陣のインタビューに「幸いにも家裁は10階と9階だけでした。一生かけても償っていきます」の「幸い」が禍となり、一斉に非難が集中。結局実刑3年の刑を受けることに。本書の内容は、消防隊員や犠牲者の厳しい消火活動や避難活動を描きますが、裸一貫で巨万の富を築いた横井氏の不運では済まされない大火災でした。

 

1993年「金丸逮捕劇の知られざる真実」

かつて政界のドンと言われた金丸信自民党副総裁。1992年に佐川急便からの闇献金事件が表面化し、東京地検特捜部は本人の事情聴取もせずに略式起訴、東京地裁は罰金20万円を命令するという、信じられない軽い処分を下した。これにはさすがにマスコミ、国民が怒りの声を上げ、検察の威信は地に落ちたと言われた。これを受けて検察も汚名返上するため、翌年に脱税事件を立件し、逮捕・起訴に持ち込む。本書では、金丸ほどの実力者にはどれだけたくさんの金が入ってくるかを、彼の証言で紹介している。中元・歳暮時に紙袋に品物と一緒に何百万、何千万の金を持ってくる会社や個人がたくさんいたこと、その金を現金で持つのは危ないので、無記名の割引債で保管していたこと。誰が持ってきたかは、相手に迷惑がかかるから言えないことなど。その金は竹下登を総理にするために多額の金銭を使ったこと、盆暮のモチ代や選挙資金に使ったなど。但し、金塊での貯蔵など、極めて私的にため込んだことは語られていない。また、奥さんと財布は別にしていたというようなことも語られている。田中派から竹下派に至る派閥支配の政治が、いかに金銭で薄汚れていたかを金丸事件は象徴的に表したものであった。

 

1995年「オウム暴発で自衛隊出動待機命令」

1995年は1月に阪神淡路大震災3月に地下鉄サリン事件が発生し、世の中は混乱の極み

の状態。地下鉄サリン事件が発生してからは、震災報道は消え去り、サリン事件とオウムの動向一色の状態となり5月の強制捜査と幹部逮捕がようやく実行された。

山梨県上九一色村のオウム拠点の捜索は、山梨県警と警視庁中心に行われたが、ここでも自衛隊の出動について焦点になった。オウムがサリンという大量破壊兵器保有する集団であり、彼らの抵抗により、捜索隊や出家信者、更には東京など大都市での報復散布により多大な犠牲が出ることを恐れたためであるが、結局サリン使用などの抵抗はなく、自衛隊は待機のみで済んだ。国内で発生した最大のテロ行為を今後の対策の糧にしているのか?甚だ心もとない気がする。

 

1996年「ペルー日本大使公邸事件 揺れた国家の決断」

ペルーの日系人は約10万人と言われますが、1996年当時の大統領は日系のフジモリ氏。当時はかなり人気があり、絶大な権力を持っていた。そして、南米などは人質事件などでも決して妥協しない国柄。それに対して日本は人質の人命尊重第一の国柄。人命のためには犯人と妥協することもやむを得ない国柄である。

この事件は約4か月間、14人のテロ犯人が71人の人質(当初はもっと多い人数、徐々に開放していた)を取って日本大使公邸に籠城した事件。たまたま日系人の大統領だから日本政府の人質優先を聞いてくれたのかどうかはわかりませんが、長期にわたり事件を引っ張ってくれたことには感謝です。その間の日本政府の対応は、いずれ来るペルー側の突撃に対してどんな対応をすべきかに集中。当時の首相は橋本龍太郎でしたが、フジモリ大統領とのやり取りでは、「とにかく人質第一」、「ペルーにはペルーの事情がある」。日本のいいところでもあり、歯がゆいところでもありますが、結果的には4か月後、極秘に掘っていたトンネルからペルー軍特殊部隊が突入し、犯人全員射殺、人質全員保護の結果。人質に一人も犠牲者が出なかったのは奇跡としか言いようがありません。

 

1999年「北朝鮮新入戦を迎え撃った緊迫の8時間」

北朝鮮の不審船が日本領海内に侵入する事件が発生した1999年の、これまた日本政府のあたふたぶり描写します。海上保安庁が一義的には追尾するのですが、自衛隊はどう対処するのか、相手が攻撃してきたら誰がどう対応するのか。ベレンコ事件の教訓が果たして生きていたのか?甚だ怪しい日本政府の対応でした。

 

大事件はまだたくさんあったのでしょうが、本書で語られる10大事件は、日本という国の脆弱さを表すとともに、2020年の現時点で直面するコロナ禍にいかにその教訓が活かされているのかを、私たちは考える必要があるかもしれない。

今日はこの辺で。