河野義行「疑惑は晴れようとも」

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松本サリン事件の被害者であり、かつ容疑者でもあった河野義行氏の「疑惑は晴れようとも」読了。
足利事件をきっかけに、冤罪に関する関心が高まっています。河野氏は、松本サリン事件の第一通報者で、奥さんが重態(2008年に死亡)、本人も被害にあった純粋なる被害家族であったにもかかわらず、余談と偏見に満ちた警察の捜査と、それに追随したマスコミ報道により、有力な容疑者として厳しい取調べを受けました。半月後には毒ガスがサリンと判明し、その生成が生半可には不可能な物質であることが分かったにもかかわらず、最終的には地下鉄サリン事件とその後のオウム真理教の幹部逮捕まで疑惑が完全には晴れなかった経緯があります。足利事件でもDNA鑑定が唯一の物証とされ、結果的にその鑑定の誤りが判明してやっと冤罪が晴れました。こうした一連の冤罪捜査を見るにつけ、警察には本来の科学的捜査というのが存在するのか?との強い疑問が浮かぶと同時に、警察の「面子」に対する執念が見られます。面子のためには一人の人間の命などどうなってもいいという、恐ろしい論理が警察組織に存在することが浮かび上がってきます。
そしてマスコミの対応。私も覚えていますが、当時の報道は間違いなく河野さんを犯人扱いしていました。本書にも出てきますが、「薬品の調合に失敗した」とか、「白い煙が出た」といった、河野さんが言ってもいない文言が、あたかも本人が口にしたかのごとく、テレビや新聞紙上に躍りました。河野さんいわく、「警察のリーク」をそのままなんら疑いなく活字や映像にしたマスコミの罪もまた、河野さんからすれば許しがたいことでしょう。
もしも地下鉄サリン事件が発生せずに、サリンの出所が不明のままだったら、本当に河野さんは自供を迫られ、足利事件と同じような冤罪の道をたどり、7名の命を奪った罪で死刑宣告されていたかもしれません。本当に恐ろしいことです。
河野さんのような頭のいい人だから、最初から弁護士に依頼し、耐えられただけかもしれない松本サリン事件。こうした誤った警察の捜査と、誤った報道が、その後この事件を教訓に改まっているのか?甚だ疑問です。本書は、警察やマスコミ、そして市民一人ひとりに重い課題を投げかけています。
今日はこの辺で。