敬老の日に思う

今週月曜日、18日は敬老の日でした。数年前まで敬老の日は9月15日と決まっていましたが、2003年ごろから法律で第3月曜日になったとのことです。したがって今年は18日が該当日で、何となく過ぎた感じがしてなりません。祝祭日を平日にあてて連休を増やし、それによって国民の消費熱を盛り上げようとする施策と聞いています。成人の日も同じように日にちが不特定になっています。こんな具合で、祝日の意味が何となく薄れているような気もします。
さて、敬老の日の意義は何でしょうか?勿論老人を敬い、尊敬する日であり、その精神は大切なことであります。しかし、今のような高齢化社会となり、今後も一層高齢化が進む中で、いつまでもある特定の日を敬老の日と定める必要があるのかどうか?こんなことを書くと、高齢者切捨て思想の持ち主ではないか?などと誤解を与えるかもしれませんが、一度よく考える必要があることではないでしょうか。
よく目にすることですが、電車のシルバーシートには若者が堂々と座り、その前に高齢者が立っている光景があります。そんな私も50歳になって、空いていればシルバーシートにもついつい座ってしまい、知らん振りをすることもあり、情けなくなることがあります。ただ言えることは、今の高齢者、具体的には65歳以上の方でも我々50歳の人間より生き生きとし、元気な方が多いということです。今疲れているのは、どちらかといえばリストラや賃下げの中で目一杯仕事をさせられている現役世代ではないかということです。年金もだんだん減らされ、定年後にも不安のある今の現役世代にとって、現在65歳以上の人は羨ましい限りの人が大半のようにも思えるのです。そんな優遇された方たちを更にどこまで優遇すればいいのか?
今日は若干危険思想的な考えを披露してしまいましたが、高齢化社会の中で考えなければならない大きな問題でもあります。
今日はこの辺で。