母逝く

2021.11.09(火)、100歳の母が亡くなりました。前日実家の兄から、施設に入居している母が、食事もできなくなり、施設で最後のお別れをするように連絡があり、当日田舎に帰省し母と面会。すでに目も空けられない状態だったが、耳元で呼びかけると反応があり、手を握ると、それに応えるような仕草があった。しかし、もって数日であろうとの感触を得て、一旦は東京に戻る。そして夜に義姉から、亡くなったとの連絡を受ける。コロナ禍で面会もできない状態が続いたが、感染状況が改善し、最後のお別れができて幸いであった。

母は大正9年生まれで、ちょうど100歳。私が子供のころは、身体が弱い印象であったが、長男を抱えながら東京大空襲の中を逃げ回り、生き延びた経験を持つ。戦時中は両国近辺で新婚生活を送っていたようだが、焼け出されて、結局父の実家である長野県佐久地方に行くことになる。当時の父の実家には祖父と姉がおり、あばら家での生活だったようだ。祖父は私が生まれる前に亡くなり、義姉と長いこと同居することになるが、ずいぶん二人の喧嘩を見たものである。そんな生活が、案外母を強い心身が強い人間にしたのかもしれない。それにしても、父の薄給で5人の子供を育ててきたのである。末っ子の私以外は中卒で、15~16歳で集団就職のような形で東京方面に出てきたことからわかるように、高校に進学させる経済的余裕がなかったのである。母親としても、残念無念な心境であったのではないか。その私のきょうだいも二人がすでに鬼籍に入り、母は子供を二人を自分よりも早く亡くしたことにも無念であったのではないか。

母の生涯は100年であったが、私が一緒に暮らしたのはその5分の1弱の18年間だけであるが、やはり一番世話になり、印象深い親族である。その後私が東京に出て、会う機会は私が帰省する年数回しかなかったが、母にとって私という息子はどんな存在だったのか。末っ子ということで、いちばん可愛いがってくれたのか、それとも5分の1の一人にすぎなかったのか。今となっては聞くことができなくなった。

私はただ一度だけ、母に侮辱的な言葉を投げ、一時口をきけない状態に陥ったことがあり、それが私にとっての後悔になっている。小学6年生の頃の苦い思い出である。あの時の母の気持ちを思うと、何とも自分が嫌になるのである。なぜあんな言葉を投げ空けたのか。今思い出しても母が何か自分にしたわけではなかった。恥ずかしい限りだ。それ以後は、、母にとって最も心配のない息子であったのは事実ではないかとは思っている。そんな母を旅行に連れて行ったり、一緒に過ごす時間をつくったりすることがなかったのは、親不孝そのものであった。

母ちゃん、長い間お疲れ様でした。

18日が通夜、19日が告別式との連絡があり、遺体との最後の別れの静かな時間を過ごそう。

今日はこの辺で。