倉山満「検察庁の近現代史」

憲政史家の倉山満著「検察庁近現代史」読了。新書ながら、360pに及ぶ大作でやっと読み終わった。

本書で一番教わったのは、「刑事裁判において裁判官が裁くのは被告人ではなく、検察官。検察官がいかに被告人の有罪を確かな証拠を持って立証するかである。」森法務大臣が「ゴーン元日産会長は日本の裁判で堂々と無罪を立証すべきだった」と言って世間から嘲笑されていますが、弁護士出身の法務大臣でさえこんなことを言うお粗末。

さて、日本の近代司法制度は明治維新とともに始まったのですが、そのモデルは欧州、特に英国、フランス、ドイツと言った当時のいわゆる先進国にならったもので、明治4年には現在の法務省にあたる司法省が設立され、江藤新平が初代の司法省のトップについています。その時代から現在に至るまでの150年間の司法の動き、特に検察を中心にして描いたのがこの作品。

法務省の幹部人事で他省と違うのは、役人のトップである事務次官の出身母体が検察庁の人であること。と言うよりも、事務次官よりも検事総長の方が力を持っていると言った方がいいでしょうか。司法試験に合格し、司法の場で生きてきた役人である検察官のトップの方が幅を利かせているということ。

本書を読んでいて気が付くのは、歴代の首相と検察のつながりが案外強いということを感じます。歴代の首相で逮捕されたのは戦後間もない時期の昭電疑獄での芦田均ロッキード事件田中角栄。特に田中角栄は現職時の犯罪での逮捕で衝撃でしたが、とかく政治家の逮捕などは、検察の胸先三寸の判断で行われていたように感じます。

それと、トップである検事総長を目指すような人が随所に名前が挙がってきます。検察官も役人であり、トップに行きそうな人間は最初から決まっているのか、それとも上のご機嫌取りなのか、あるいは本当に実績を上げているのか、微妙なところです。頻繁に出てきた名前で検事総長になれなかったのは岸本義広と河井信太郎、お二人ともすごい権力欲があったように見受けられますが、逆に復活して曹長になったのが吉永祐介あたりでしょうか。

とにかく、権力欲と正義のはざまで漂う群れのような組織に見えてきました。こうした組織だからこそ、冤罪が生まれやすいことも認めなければならないと思うのですが。

今日はこの辺で。