映画「家族を想うとき」「Girlガール」「アマンダと僕」

先週末、映画三題鑑賞。

イギリス映画「家族を想うとき」は、ケン・ローチ監督が現代の新自由主義による格差社会を批判を込めて描く家族映画。

かつて建設労働者として働いていた主人公の夫が失業後職を転々とし、見つけた仕事が宅配業。自分で車を調達して会社とフランチャイズ契約してアマゾンはじめ通販の品物を顧客に届ける仕事で、当然に日本で言うところの労働基準法の範囲外に置かれる立場。1日14時間、週6日間働いても家族4人を養うことが難しいような収入。妻もまた朝7時から夜の9時まで訪問介護の仕事を自分でバス代を払ってする請負のような仕事。

かつてゆりかごから墓場までと言われたイギリスの福祉社会はどこへ行ってしまったのかと思ってしまいますが、サッチャー以降の新自由主義の跋扈により、イギリス社会も壊れてきてしまったのかと思うほどの苛烈な労働環境を見せます。

ふたりの子供は親の苦労をわかっているのですが、だからこそ親への反感や依存を強めていきます。

イギリスの中流家庭がみんなこれほどに壊れていっているとは思いませんが、この映画の救いのないラストを見ると、ケン・ローチの社会や政治・経済システムへの怒りを感じます。もちろんこれはイギリスだけの話ではありません。日本のフランチャイズコンビニの店主たちも、労働法の保護のないなか、深夜営業を本部から強制され、労働力不足の中アルバイトも雇えず店主家族が長時間労働を強いられる姿と同じです。

ラストに救いのないこの映画は本来的には嫌いなのですが、社会派映画としては秀逸な作品でありました。

ベルギー映画「GIRLガール」はトランスジェンダーの体は男性、心は女性の主人公の、これまた厳しいドラマ。LGBT理解度の先進国である西欧においても、トランスジェンダーに対する無理解は解消されておらず、主人公はその無理解に対して自分からはなかなか発信できずに、次第に心にため込んでいく姿が非常に痛々しい。その最後の決断が、体が男であることの象徴を切断する悲痛。この場面は衝撃を受けるハイライト。父親が子供の思いを受け止めているのですが、それでも全部を受け止められないつらさもよく表現されていました。この作品もなかなかの秀作。

最後はフランス映画「アマンダと僕」。シングルマザーの姉がテロ事件で急死し、24歳の弟が娘のアマンダの面倒を見ることに。最後はその娘を幼女とする決心をする経緯を描写します。全2作に比べるとインパクトに劣る作品ではありますが、眠らずに見たということは、そこそこの作品ではありました。

今日はこの辺で。