黒田福美さんが太平洋戦争において朝鮮人特攻兵として亡くなり、その彼の慰霊碑を祖国の韓国に建てること決意し、その活動を描いた「夢のあとさき」を読み、特攻とは何だったのかについて理解するために手に取ったのが鴻上氏の著書「「不死身の特攻兵」。
とかく特攻というと、命を賭して日本のために自ら死んでいった崇高な存在のように語られますが、果たしてそうなのか。この著作は、鴻上氏が特攻兵として飛び立ちながら、生き残った貴重な存在の元特攻兵の存在を知り、彼に何度もインタビューして書き上げた特高の実態のノンフィクション。
佐々木友次さんは、21歳の若さで陸軍で最初の特攻兵に指名され、9回飛び立って9回帰還した貴重な方。彼のインタビューは第3章に書かれていますが、それをもとに鴻上さんが特攻の実態を綴っています。
先ず特攻は志願だったのか、それとも命令だったのか。実態は参謀本部が考えた作戦の一つであり、海軍の大西瀧次郎中将が考えたと言われます。これは本当かどうかわかりませんが、大西中将は戦況から敗戦を自覚し、この作戦をとれば、天皇がもはや戦争継続は困難と察して降伏宣言するのではないか、と思ったとのこと。これが本当だとしても、実際は戦果のみ天皇に伝わり、原爆投下まで終戦はなりませんでした。
特攻は命令する側と命令される側の立場が大きく違います。これに関しては、戦後生き残った者の中で、命令する側は「志願だった」と言い、命令される側は「命令だった」と言うのが大方の見方。
その中で、命令する側で悪名高いのが富永恭次中将、宇垣纏中将、菅原道太中将。このうち宇垣中将は玉音放送の翌日、責任を感じてか部下17人を伴って特攻に向かい全員死亡、富永中将はロシアに勾留され1955年に帰還し台湾逃亡を含めて「敗軍の将兵を語らず」に徹し、菅原中将は特攻隊員の慰霊に勤め1983年まで生きることになる。
作戦を考えたと言えわれる大西中将は、終戦翌日に割腹自殺。命令したものとして解除を拒んで苦しみぬいて死んだとのこと。こうして特攻は戦後にまで命令した側と命令された側の葛藤が続いた。
鴻上氏はまとめとして、戦争を指揮するものは決して精神論で兵隊を使ってはならないことを主張します。日本には日露戦争を精神論で勝ったという幻想があり、敗戦まじかになると、精神論がまかり通ってしまったことが犠牲を多く出したと言われる所以です。最初から日米には大きな経済力の差があり、桶狭間の戦いは通用しなかったことを肝に銘じ、戦争という愚を犯さないことが何より重要なことであることをつくづく考えさせられました。
今日はこの辺で。