韓流ドラマ「ヴィンツェツォ」

Netflixの韓流ドラマにはまっている今日この頃。ドラマは見だすと止まらない面白さがあり、この流れを止めようとするのですが、なかなかドラマ絶ち出来ない状況が続く。

「ヴィンツェツォ」は、イタリアマフィアの韓国青年が、韓国に帰って悪を懲らしめる痛快ドラマ。主人公が男前でかつ強靭的な強さを持ち、出来すぎなドラマではあるが、こうした勧善懲悪的ドラマは見ていて何とも心地よい気分となるから、見るのを止められない。韓国ドラマでの悪人のパターンは、警察や検察などのお役所的権力を使う者、そしてその背後にいるのが巨大財閥のオーナーという設定が最も多い。韓国では財閥系企業の存在感が大きく、経済的な力を利用して役人と結びつき、弱い者をいじめているという構図がパターン化されており、さぞや財閥が庶民から嫌われているのかと言えば、実際はそうではなく、いい大学を出て財閥系企業に就職するのが勝ち組パターン。でなければ警察や検察、裁判官などの司法官への道、あるいは役人になるしか道がないとでもいうような構図が

よく言われます。そうした庶民から見ると頭にくるような社会構造がこういったドラマを生み出し、せめてもの慰めとして、皆さん溜飲を下げているのではないかと勝手に想像。

とにかく、弱者が力を合わせて強い力を持つ悪い奴らをやっつける姿は痛快ではあります。

今日はこの辺で。

 

中山七里「ドクター・デスの遺産」

中山七里先生が安楽死を題材にしたミステリー「ドクター・デスの遺産」読了。安楽死は各国とも大きな社会問題ではありますが、ことが人命にかかわる問題なので、政治的には誰も取り扱いたくない問題で、社会問題として話題が挙がって初めて法的な議論が始まるのですが、なかなか進展していない現状。そんな中、現在コロナウィルス蔓延拡大が医療をひっ迫させ、大阪などでは命の選択もされているとの話もある。若干テーマとしては違うのですが、末期患者の命の選択、本書でいえば「人間の死ぬ権利」を問う格好の小説である。

病気の末期患者が死亡した場合には、普通であれば病死ということで診断書が書かれ、遺体が焼かれて何ら疑いは持たれることはないが、警視庁に子供から、父親の死がおかしいと電話があるところから話が始まる。登場するのは中山作品の常連、警視庁の犬養刑事。疑問を抱いた犬養が司法解剖を要請し、解剖の結果、安楽死で使われる薬剤が遺体から発見される。父親は末期患者で母親が安楽死のネットサイトから依頼したことがわかり、首謀者を詰めていくのが本筋。犬養刑事には腎臓病の子供がおり、腎臓移植しない限り完治が難しい病で、安楽死を自分の子供の問題でもあると捉えるが、あくまで司法は殺人。

安楽死の条件が一応示されているが、それを満たしたからと言って、医師が積極的にそれを実行することは今でも御法度。法に従わざるを得ないのが日本の現状。

安楽死問題については、安楽死が合法化されているスイスで日本のALSの女性が安楽死を選択してスイスで最期を迎えるNHKのドキュメンタリーがあり、世間に衝撃を与えたが、この小説はそれ以前に書かれた作品。中山先生が使ったのは、国境なき医師団で看護師として戦地の悲惨な医療体験から、安楽死を「人間の死ぬ権利」として選択してきた女性の体験談。勿論その女性は悪意ある犯罪者ではないが、安楽死が許されていない日本では許されない行為。それでもラストのがけ崩れで埋まり、極度の苦痛を訴える末期患者を安楽死させることに目をつぶらざるを得ない場面は胸を打つ。

今日はこの辺で。

 

中山七里「カインの傲慢」

中山先生が臓器売買の闇を題材として書いた「カインの傲慢」読了。

今世の中はコロナ禍で、格差の拡大がさらに顕著となっているといわれる。国連はSDGs(持続可能な開発目標)を掲げ、17項目の目標を掲げているが、その多くに絡んでいるのが第一番目の「貧困をなくす」である。つづく「飢餓」「健康福祉」「教育」等々は、すべて元は貧困に起因するもの。その「貧困」が生み出すものの一つとして、貧者の臓器を不者に移植するという闇のビジネス。ほぼ人身売買に近い重大な犯罪であるが、貧困からの一時的な脱出のために、自らの臓器を売ると言う行為を誘発する臓器売買の闇。勿論日本はもとより、世界中で重大犯罪であることは間違いないが、これをビジネスとしてしまう輩が存在するのは、需要供給の関係からある意味必然なのか?

本作で犠牲になるのは、まだ大人になっていない少年たち。いずれもが貧困にあえぐ家庭で、臓器を売ることになる少年たちで、肝臓を除去された状態で遺体が発見され、そのビジネスに絡む人間たちを、中山作品の主役の一人である犬養隼人が追い詰めていく。

ミステリーではあるが、中山作品が訴えるのは、貧困がそもそもの原因で、それが生み出す闇を描くこと。従って、犯人捜しゲーム的には何ら特質すべき展開はないが、社会性という意味で価値ある作品。

本作で中国の臓器移植について説明している部分があり勉強になった。それは、死刑囚の臓器を死刑執行と同時に摘出し、それを患者に移植する制度があったという点。2015年には廃止されたようですが、死刑囚が罪の償いとして最後の社会貢献を臓器提供し、それを患者に移植する制度。非常に合理的な制度のように見えるが、この制度は長年にわたって物議をかもして来たようです。この制度のおかげで中国の臓器移植は飛躍的に拡大し、移植技術も発展したとのこと。この制度の廃止によってドナー不足が深刻になり、臓器提供を目的とした人身売買が多発するという副作用が発生したといわれる。本作でも中国人少年が来日して臓器摘出手術で死亡した事件を盛り込んでいるが、これは決して中国だけの話ではない。今やOECDの中でも貧困率が下から数えた方が早い日本の現状では、このような臓器売買が鵜網に隠れていてもおかしくない。貧者の命は冨者の命に比べていかに安くなっているのか。

今話題となっているヤングケアラー問題。20人に1人の割合で小中学生が親族の介護などをしている実態が明らかになり、相談制度の拡充などをしていく体制整備がようやく始まろうとしているが、社会の制度を知らない小中学生があえいでいる姿が痛ましい。何より貧困をなくすことから始めなければならないと痛切に感じる。

今日はこの辺で。

 

中山七里「セイレーンの懺悔」

中山先生がメディアの功罪について鋭く迫った「セイレーンの懺悔」読了。「セイレーン」は、ギリシア神話に登場する上半身が人間の女性、下半身は鳥の姿とされる海の怪物で、航路上の岩礁から美しい歌声で航行中の人を惑わし、遭難や難破に遭わせるという生き物。メディアをセイレーンに見立て、いかにも真実たらしく大衆に事件を伝えるが、実はそこには大きな間違いが潜んでいるという中山先生の標題趣旨なのか。

女子高生が廃工場で殺され、同じ学校のいじめグループをテレビ局スタッフが犯人と見定め報道するが、実は大誤報。この報道で自殺未遂者迄発生し、テレビ局では大粛清人事が実施されるが、誤報の主役であった入社二年目の女性社員、多香美さんが続報取材で危険な目にあいながら大スクープを獲得するのが大体のストーリーだが、第三の権力と言われるマスメディアの功罪を描くのが中山先生の主題。

朝日新聞慰安婦報道で吉田証言を信じ込み、のちに大誤報とされる事件は、朝日新聞の信用を大いに棄損したが、その事例も語られるところが中山先生らしいところ。

現代はSNSのむせきにん報道がごまんと溢れ、ファクトとフェイクの見極めが非常に難しくなっている時代だが、プロのメディア人にはその見極めをするスキルを磨いてもらいたいものです。特に犯罪や政治報道における政府や警察・検察からの一方的な情報を鵜呑みにした情報の垂れ流しだけは注意してもらいたいもの。長年のいわゆる「記者クラブ」制度の廃止はいつになるのか?日本の報道の自由度が世界的にも低レベルにあることを、メディア人は何も感じないのか、不思議でなりません。

今日はこの辺で。

 

映画「すばらしき世界」

西川美和監督、役所広司主演と聞くだけで観たくなる日本映画「すばらしき世界」を59日(日)、下高井戸シネマにて鑑賞。

同じヤクザが主人公の直近作「ヤクザと家族」もなかなか良い作品ではありましたが、本作も素晴らしい映画。ただし、本作の主人公が本物のヤクザとは言えない、人がいいが、短気がゆえに度を越した暴力をふるってしまう男の更生の日々を描く。柚木裕子原作の映画「孤狼の血」の刑事役をやった役所広司の方がよっぽどヤクザと言える印象。

「ヤクザと家族」同様に、ヤクザが生きにくい姿を描きながらも、周囲の善意な人たちに恵まれて、これから介護職員としてまじめに生きていく人生が送っていこうとしている寸前の、自らの病による死。決して刑務所には戻りたくないという決意があってこその更生人生。再犯率60%とも言われる現状の通り、ヤクザ者や懲役囚が生きづらくなっている現代社会にあって、一般市民から見れば恐ろしい存在と思われても仕方がないが、彼らが出所後、何とか更生していく道筋が見える社会であってほしいという思いを西川監督は描こうとしたのか。その思いが「すばらしき世界」という題名に反映されているのかもしれない。

今日はこの辺で。

 

映画「罪の声」

5月6日(木)、下高井戸シネマにて日本映画「罪の声」鑑賞。

日本全国を恐怖に陥れたグリコ・森永事件は、初めての劇場型犯罪であり、かつ未解決事件に終わった、戦後最大ともいわれる脅迫事件。犯人の刃の対象となったのは食品メーカーのグリコ、森永等の複数社。まずはグリコの社長が誘拐され、身代金搾取に失敗後に、社長自らが脱出。これで事件が終了かと思いきや、今度は食品メーカーへの脅迫が始まる。人身の実害は出なかった者の、スーパーの食品に毒を混ぜたという脅迫状が届き、実際に毒も発見された事件。狙われた食品メーカーの製品は撤去され、株価ば下がり、会社は大きな損害を被ることに。脅迫状や脅迫電話が多数届き、正に劇場型犯罪が社会を恐怖の底に突き落とすような事件であったが、突然その犯人から脅迫終了の連絡があり、その通り脅迫はぴたりとやむことになる。しかし、犯人は捕まることがなかったという事件。この事件をモチーフに、作り上げたのが本作で、勿論フィクション。しかし、いかにもありそうな話として描いているところがミソ。本作で描かれるのは、脅迫電話に使われた子供の声。彼らは犯人たちに利用され、それとは知らずに音声を吹き込み、それが実際に犯罪に使われたという設定で、その子供たちが後に悲惨な人生を歩むことになるところも描かれます。星野源演ずる子供の声の一人が、自分の声が犯罪に使われたことに気づき、小栗旬演じる新聞記者と一緒に、他の二人の子供の声を探していく過程を描く。ここで描かれる犯人像は、学生運動崩れの活動家や暴力団員などの複数集団。身代金の受け渡しは危険とみて、株価の信用取引で儲けようとする話になっているが、当時そこまで考えていた捜査陣がいたのか否かは不明。

声を利用された子供の悲劇は、犯罪の罪深さを象徴していました。

今日はこの辺で。