平成最後の年末、平成最後の正月、その他多数の「平成最後の」が飛び交った年末年始。特にテレビはすさまじい頻度で語られました。平成を回顧する番組も多かったと思いますが、果たしてこの平成の時代はどう位置づけられるのか?ただ、今上天皇を悪く言う言葉はどこからも聞こえません。昭和天皇については、やはり戦争責任を絡めて、諸説が行きかったと思うのですが、平成の世では、少なくとも戦争の当事者とはならず、もちろん太平洋戦争時には未だ成人しておらず、何ら戦争にかかわっていなかったのですから、責任などありませんが、それでも先の戦争の犠牲者を悼んだり、アジア諸国に対して深い反省を込めた思いがあったことから、平和を希求する天皇としての役割を果たし、その存在感を示したのは大きな功績でしょう。そんな天皇にとって、今の右傾化した政権が大いに気がかりではないかと思うのは私だけでしょうか。
さて、新年最初の小説は朝井まかて「最悪の将軍」。徳川15代の中で最も評判の悪いといわれる綱吉の生涯を描く作品。「最悪の」と本の題名をつけていますが、朝井まかてさんが描く綱吉はどちらかというと名君に描きます。悪評高い「生類憐みの令」から犬将軍とも呼ばれる綱吉ですが、その本質は紛争を嫌い、人間尊重にあるため、その延長上で生き物の命を大切にするという思想があったと解しています。また、綱吉時代に起こった忠臣蔵の出来事に際しては、四十七士を打ち首にすることなく、切腹という武士の尊厳を守らせることで決着させたことも語られます。
本当はどんな人物であったかは誰にもわからないのが真実でしょう。
この小説を読んでいて気付いたのが将軍世襲問題。いつの世にも世襲問題は大きな問題となりますが、綱吉の世襲についてもひと悶着あったようです。四代将軍家綱まではスムーズに世襲されましたが、家綱には男の子がおらず、当時舘林徳川家であった弟の綱吉が五代将軍となる。綱吉自身も男の子がおらず甲府徳川家の家宣が世襲。ただし、家宣は5年半の在位で亡くなり、その子家継が継承。家綱も3年の在位で早世し、紀州徳川家の吉宗が世襲しました。子の吉宗世襲時にはかなりの大ごとになったのは有名。
当時は側室を持つのが常識で、初めて知りましたが、徳川家の将軍で正室の子が世襲したのは一人もいません。三代以降の正室は皇室から迎え、徳川家と皇室の間を取り持つ役目が主な役割で、子供は主に側室が生むという役割分担があったようです。側室制度があったにも関わらず世襲に苦しんだのは将軍が体が弱かったり、生まれても早世するケースが多かったようです。
現在の天皇家も同じように世襲する人がいなくて困っていますが、家を繋いでいくことは誠に大変なことを感じた次第です。
今日はこの辺で。