司法制度への一石

「それでも僕はやっていない」の評判がすこぶるいいようです。映画封切以降、朝日新聞には周防監督の投稿記事が掲載され、今日の夕刊でも、映画の題材となった事件についての記事が載っていました。数年後に裁判員制度が始まりますが、そのPRにも役立っているようです。周防監督は3年間をかけて痴漢冤罪事件の裁判に、単なる傍聴だけでなく実際に参加し、現在の日本の裁判制度の矛盾を抉り出しましたが、これこそが映画作家としての真骨頂でしょう。
さて、裁判員制度ですが、痴漢事件のような軽犯罪には適用されないと思われますが、もし裁判員制度がこの映画のケースに適用されていたらどんな判決が出ていたでしょうか。私も帝京大学の模擬裁判を傍聴したことがありますが、一般に裁判員による判決内容は、現在の被害者感情の重視傾向から見て、量刑が重くなる傾向にあると思われます。しかし、これはあくまで被告人が犯罪を認めている場合です。今回のような否認しているケースではどうでしょう?裁判員は中学生の被害者のあどけない訴えにも関わらず、無罪判決が下せるでしょうか?物証のない中で、結局人間を動かすのは感情です。どちらが感情に訴える効果があるかです。あどけない少女が痛切に訴えるケースはインパクトが大きいでしょう。反対にアダルトビデオを持っていたフリーターの青年は圧倒的に不利です。いわゆる状況証拠が裁判員の頭を支配します。やっぱり裁判は恐ろしい結果を生んでしまうのか。
今日はこの辺で。