尊厳死について

今日会社からの帰り道、何年ぶりかで小石川後楽園に入りました。時間は既に入園締め切りの17:30を過ぎていましたが、係りの方が入れてくれました。感謝、感謝。会社からはそんなに離れておらず、帰り道でもあるのですが、約20年ぶりの入園です。ただ、もっと桜があるのかと思いましたが、桜は数本だけでした。あわただしく1周してきましたが、日本庭園の落ち着きを味わってきました。
さて、最近の事件から、富山県射水市民病院外科部長の呼吸器はずしによる尊厳死事件について述べたいと思います。こうした大きな問題に意見を述べる資格など私にはありませんが、ほんの私見です。
医師による尊厳死または安楽死問題は、忘れたころに、不思議にマスコミをにぎわします。その都度大々的に取り上げられますが、そのうち何の結論もないまま静かになり、話題がいつの間にか消えていきます。そしてまた同じような事件がマスコミをにぎわすと言うパターンです。ただ、介護疲れによる家族間の安楽死事件はかなりの頻度発生し、新聞に掲載されます。いずれにせよ、マスコミは結論じみたことは言わず、法整備を急げだの、介護制度を充実させろなどと社説として主張するだけです。マスコミを非難しているわけではありません。この問題に答えはそもそもないのだと思います。これだけ医療が発達しても、必ず老いはやってきます。そしていつかは足腰が弱り、頭も弱ってきて、最悪は痴呆症や寝たきりになります。にもかかわらず高齢者は死にたくても死ねない社会になっています。かつてのような3世代同居世帯はなくなり、誰か特定の人間に負担がかかり、金銭的にも負担がかかります。こうした中で、いわゆる末期患者の医療に関しては、正に今回の事件で当の外科部長が言っているように、医師と患者の遺族の暗黙の同意が成り立ってもおかしくありません。いや、それが今の末期治療の現場の実態ではないでしょうか。あくまでこれは暗黙の同意であって、そこに同意書があるはずがありません。今の法律では、今回の医師の行為が犯罪に当たる可能性がありますが、こういう事件(出来事)が明るみに出ることがまれなのであり、本来は表に出てくることではないのが普通なのです。
私も扶養親族の治療で医師から相談を受けたことがあります。その親族はいわゆる末期患者で、点滴のみで栄養を補給し、意思表示も出来ない高齢者です。点滴も受け付けなくなり、のどから栄養補給するかと尋ねられましたが、私は「先生にお任せします。ただ、本人が苦しいことはしないでください」と言いました。先生は適切に判断して下さり、数日後に息を引き取りました。私のその親族は内臓が丈夫なため、もしのどから栄養補給していたらもっと生きたかもしれませんが、それに何の意味があるでしょうか。しかし、そんなことは大きな声では言えないし、紙に書いて記録することでもないのです。今回の射水の事件が明るみになった裏事情は分かりませんが、本来明るみになってはいけないことだと、強く私は思います。
尊厳死」と言う言葉で思い出したのが、昨年観た映画「ミリオンダラー・ベイビー」です。クリントイーストウッド監督・主演のこの映画には泣かされました。最後に女性ボクサーが試合の怪我で全身不随となり、イーストウッド扮するトレーナーに自分を殺してくれと頼みます。トレーナーは、彼女の「尊厳」を守るためそれを実行するのです。この行為は、ある人から見れば殺人行為と看做されるでしょう。しかし、彼女の境遇や尊厳を考えた最善の結果だと、最も身近な存在であるトレーナーが判断したのであり、誰からも非難されるべき行為ではないのです。
長くなりましたが、今日はこの辺で。