染井為人「正体」

染井為人氏の作品は初めて。1983年生まれと言いますから、現在39歳の新進気鋭の作家。まだ著書の数も少ないですが、本作「正体」を読む限り、これからが楽しみな作家でしょう。本作に出会えて、私も幸せな3日間を過ごしました。

主人公の鏑木慶一は、若い夫婦と幼い子供三人を殺害したとして、高校3年生・18歳ながら、その残虐な犯行から、死刑の宣告を受け拘置所に拘留される。彼は裁判では一貫して無罪を主張したが、刑事司法はそれを受け入れることなく極刑。勿論、犯罪の残虐性から死刑もやむを得ないが、鏑木は隙を見て脱獄。ここから彼の、逃亡して身分を隠しながら働く職場での出会いが描かれる。彼が冤罪であることは、当初の展開から読者にはわかるが、彼がどうやってその冤罪を晴らしていくかという興味を読者は持ちながら、一気読みしたくなるストーリー展開は見事。

プロローグでは、牛久市に住む高校3年生の酒井舞が、4月から東京の美容専門学校へ行く酒井家の家庭が描かれ、神戸の拘置所から死刑囚の鏑木慶一という20歳の青年が脱走したという事件が流される。

1章は脱獄455日。桜井翔司と名乗る20歳の青年が、我孫子にあるグループホームの面接を受け採用され、介護の仕事に就く。彼はまじめで、老人の面倒見もよく評判上々。社員の四方田は、こんな優秀な青年が介護施設に就職したことに一抹の疑問を持つ。このグループホームには、鏑木慶一という当時18歳の少年が殺害した若夫婦と同居していた母親が認知症で入院していた事実が語られる。

第2章は脱獄33日目にさかのぼる。野々村雄一という青年が働く工事現場は、下請けの労災も認めないような劣悪な現場。初老の労働者の労災事故について、同じ現場で働く遠藤雄一という青年に相談し、遠藤は若いにもかかわらず、知識があることに驚く半面、遠藤の挙動に不信を抱き、脱獄犯の犯人ではないかと思い尾行する。そして彼が、笹原浩子という人を探していることを突き止めるが、その意味は分からず。和也は、雄一が脱獄犯と確信したものの、その人間性から警察への通報を思いとどまる。そして遠藤は察知して飯場から姿を消す。

第3章は脱獄117日目に進む。安藤沙耶香35歳は、先輩が起業した情報誌のベテラン社員。情報誌の編集に携わり、在宅で情報原稿を作っているライターの管理を任されている。最近ライターに加わった那須隆一という青年が報酬を取りに来た時に、彼に何となく惹かれ、住むところが一定していないことを悟り、自宅に招く。指一本触れる関係ではないものの、同居生活が続くが、かつて付き合っていた男が現れ、那須が鏑木に似ていると言ったことから疑問を抱くようになるが、同居して、その誠実さを分かった沙耶香は、何者かの通報で駆け付けた警察官を欺き、彼を拘束寸前に逃がすことになる。

第4章は脱獄283日。冬のスキーシーズン真っただ中の菅平高原。そこの旅館でアルバイトに来た渡辺淳二53歳は、弁護士ながら、痴漢冤罪の嫌疑をかけられ、うつ状態となり、弁護士を続けることができず、今はリハビリを兼ねて旅館の住み込み従業員として働く身。そんな職場にいたのが袴田勲という青年。その他数人のアルバイト従業員が一緒に働く中、渡辺の痴漢行為が知られるところとなり、渡辺は自死を覚悟する。そんな彼を温かく抱擁して、渡辺の冤罪を信じると言ってくれた袴田に救われる。立ち直った淳二が去る時に、給料が亡くなったことが分かり、警察に通報することを知った袴田は姿を消す。渡辺の給料を盗んだのが宿の亭主だったことも露見し、従業員の疑いは晴れるのだが。

第5章は脱獄365日。鏑木が脱獄してちょうど1年が経過。鏑木は何とか逃げ延びて、1年後には菓子工場で、久間という名でアルバイトをしている身。その工場で働く近野節枝は、義父の介護を一手に背負い、夫に不満が多い。そんな彼女が工場の同僚から誘われて新興宗教の信者となり、同じく信者となっている笹原浩子の姉の子供夫婦とその幼児が、鏑木慶一に殺されていたことを打ち明けられる。節枝は、宗教幹部との面談時に、自分の悩みとともに個人情報を話すのだが、それが詐欺の情報となり、特殊詐欺事件の被害者となってしまう。久間青年は、そんな宗教団体の悪の情報を節枝たちに提供し、姿を消すことに。第2章で、遠藤が笹原浩子の情報を集めていたことが語られていたが、ここで結びつくことになる。

第6章は脱獄488日。プロローグで登場していた酒井舞は、東京の美容専門学校を中退し、今は安孫子グループホーム介護士として働く身。彼女は、ひそかに先輩介護士の桜井に好意を持つ。そんな舞が夜勤の時に、2階担当の桜井が、毎晩井尾由子と奇妙な会話をしていることに恐怖を抱き、調べていくうちに、桜井が鏑木であることに確信する。舞は本人に確認することができず、信頼していた社員の四方田に相談。その時、舞が桜井に好意を抱いていることを話したため、舞に好意を持つ四方田は警察に通報してしまい、警察が施設を取り囲む状態となる。桜井=鏑木は、舞を人質にする格好で、舞に自分が冤罪であること、井尾由子がそれを目撃していることを語る。そんなとき、警察は部屋に侵入し、鏑木は帰らぬ人となる。

第7章は「正体」。鏑木が亡くなったことで放心状態の舞に、鏑木が1年半の間に職場で出会った弁護士の渡辺淳二、飯場の野々村和也、情報誌の安藤沙耶香、菓子工場の今野節枝、そしてグループホームの四方田は舞を尋ね、鏑木の冤罪を晴らす仲間になろうと誘い、鏑木の冤罪を確信した舞は仲間に入り、エピローグで鏑木の冤罪が張らされるのであった。しかし、そこに鏑木はもう存在しない。

大変に読み応えのある、傑作でありました。

なお、小説であるから、権力によって殺されたにもかかわらず冤罪が晴らされ、胸のすく思いだが、現実は極めて不可能な判決であろうことは想像に難くない。三鷹事件で獄中死した竹内景助氏、飯塚事件で死刑にされた久間三千年氏など、国家権力のために殺された方たちの名誉は回復されたことがない。国家が間違って人を殺したとなると、罪の償い様がないからである。その為にも、死刑廃止はどうしても必要なことである。

今日はこの辺で。