長崎旅行記

2020.05.20(金)~22(日)の二泊三日の長崎旅行を敢行。かねてから妻と長崎に行きたいなあと話していたのですが、やっと思い立って実現。私達夫婦の旅行はほとんどJR東日本大人の休日倶楽部パスを利用した東北・北陸・甲信越の温泉旅行が主体ですが、西日本は昨年の出雲・松江旅行以来、九州は25年近く前の由布院・別府以来の旅行となりました。早割の航空券をゲットしての往復飛行機での旅行。

旅行の計画は1月末にたて、航空券と旅館を手配したのでしたが、私の体調が4月ごろからおかしくなり、狭心症の疑いがあるということで、病院で検査を重ねましたが、5月17日に心臓には異常がないとの診断が出たため、何とか決行できた次第。但し、体調の方は未だ高血圧が影響して完璧ではなく、不安を抱えての出発。

20日、9:55羽田発の便でしたが、出発が30分近く遅れ、到着も25分遅れの長崎空港着。当日は残念ながら全国的に曇り空で、飛行機からの景色は真っ白で、地上の景色は拝めず。空港からリムジンバスで早速長崎市内へ向かいます。バスは山の中のトンネルが多い高速道を通り、最後のトンネルを抜けるといきなり市内の中高層ビルが現れ、最初の長崎新地のバス停に到着。初日の予定は中華街での昼食だけだったので、そのバス停で下車して、近くの中華街へ。中華街は一応日本三大中華街と言われていますが、その規模は可愛いもの。神戸もたいした規模ではなかったですが、更に小さい感じの街。やはり横浜中華街はダントツの規模です。中華街は中学生の修学旅行生がたくさんいて、修学旅行も復活したことを実感。最初にマークしていたお店に行くと、10人ほどの待機客がいたため、この店は諦め、近くの小さなお店へ。このお店にも修学旅行生がたくさんいて、お味を心配しましたが、名物皿うどんと飲茶数点を注文して賞味するとなかなかのお味。但し、どうも体調が悪く、食欲がないため、妻に大食いさせてしまった次第。これは初日の旅館での夕食も同じで、かなり妻が頑張って私の分も食べてくれたおかげで、何とか完食ができました。中華街から市電乗り場に行き電車に乗ろうとしたのですが、標識を見ると長崎駅方面は反対側のホーム。急いで反対側に移動して乗った電車は、別系統の電車。終点で折り返して長崎新地に戻り、やっと駅方面の電車に乗れたのですが、この時間ロスがたたって、旅館の送迎車に間に合わず、やむなくタクシーを利用。直線距離はいくらもないのですが、旅館は急坂の上の方にあり、曲がりくねった坂を上っていくため初乗り運賃の3倍の金額。旅館について部屋の窓から下を見ればすぐ下が駅というロケーション。旅館送迎車の時間を5分すぎたばかりに、余計な出費でした。

さて、本日と二日目は連泊で「にっしょう館別邸紅葉亭」というお宿。今まで連泊の経験がなかったのですが、案外ゆっくりできて連泊も悪くないという印象を持ちました。但し、当旅館はかなり古く、部屋が3階のため40段の階段の上り下りが必要。最近は体調の関係で階段を上ると直ぐに息苦しくなってしまうので、これだけは苦労しました。

当旅館は温泉ではないので、お湯に特徴はないのですが、展望露天風呂は姉妹間のお隣の旅館にあり、一回だけお邪魔しました。ただ、ここでも階段の上り下りが多く、一回だけになりました。

部屋からは市内が一望でき、今では世界の新三大夜景と言われる素晴らしい夜景が一望でき、ロケーション的には最高。この夜景を二晩堪能できたことは幸運でした。

夕食は部屋食の卓袱料理。どこをどうやったら「しっぽく」と読むのかわからない難しい漢字ですが、長崎特有の小鉢が大きなお盆に載せられた料理と、お刺身、焼き魚、天ぷらが出てきて、私のお腹は満腹。妻に手伝ってもらって何とか完食。さすがにご飯は食べきれませんでした。ちなみに翌日の朝食は妻がほとんど手を付けず、私が若干手伝う感じ。そして夕食は和食の懐石となり、どちらかと言えば二日目の夕食の方が口に会いました。なお、三日目の朝食も前日とは違うメニューを出していただき助かりました。

二日目の観光は事前予約した観光バスでの名所めぐり。長崎の名所は市内中心部にほぼかたまっていて、バスの運行距離はいくらもありませんが、坂が多いのでバス選択が正解でした。コースは、駅前を出発して北に進み、原爆資料館平和公園、南下して出島、中華街、孔子廟大浦天主堂、グラバー邸。グラバー邸では疲れて半分ほどしか見ないでお茶をしていました。

観光最終日の三日目は13:00出港の軍艦島上陸ツアー。それまで時間があったので、妻が好きな図書館へ。長崎市立図書館に駅から歩いて向かい、1時間ほど時間をつぶして長崎港ターミナルへ。

軍艦島は明治産業革命遺産として世界遺産に登録された不思議な島。縦450m、横160mの狭い島に5600人が住んでいたという炭坑島。船から見る姿はまさに「軍艦」を思わせる景観。上陸して見学できるのはほんの一部分ですが、誰も住まなくなった建物がいかに廃れていくかがわかります。私が生まれ育った長野県浅科村の人口が、50年前に約7,000人と言われていましたが、それに匹敵する人がこの小さな島で暮らしていたというのは驚きの事実。地下1,000mの坑道で採掘していた作業員の人達の給料は、地上で働くより2~3倍という案内がありましたが、危険・汚い・きついの仕事の最たるもの。世界遺産登録時に韓国からクレームが付き、強制労働させられた朝鮮人の待遇がどうであったかは、未だに定かではないのですが、差別がなかったことを祈りたいものです。

軍艦島上陸ツアーも無事終了し、港から駅まで歩きながら途中でしゃれた喫茶に立ち寄ってお茶をして、駅前のバスターミナルから帰りは北回りコースのリムジンに乗り、駅で2.5時間の待機後、無事に羽田に到着することができました。羽田着10:00、家に着いたのは11:30分を過ぎていました。

長崎の街は平地は少なく、傾斜地が街を形成。そんな関係で地価や家賃も高いということですが、炭坑は廃校となり、三菱造船所も縮小して、明治産業革命をけん引したものづくり産業は影を潜めています。たまたま地元のテレビ放送で長崎の将来像について語っている番組を見ましたが、地方はどこも人口減少が止まらず苦戦しているのが実情。特に長崎はかつての重工業の衰退に加え、コロナによる観光客減少が響いて苦しいようです。どこの観光地に行っても思うのですが、早くコロナが収束して、せめて観光産業には頑張ってもらいたいものです。

今日はこの辺で。