毎日新聞取材班著「公文書危機 闇に葬られた記録」

安倍政権になってから問題になった公文書管理は、何件あったか。主なところで、

等々。

いずれも国会で大きな問題となり、野党が追及したのですが、「記録が残っていない」、「保存期間が過ぎたので廃棄した」、「記録は作っていない」などの答弁で政権は切り抜けてきた。

公文書は、公文書管理法で定義されており、上記案件はいずれも行政行為であり、その決定過程や記録は、当然に公文書の範疇に入るものである。特に、森友・加計学園問題では、学校の設立認可にかかわる過程に、どういった人が係ったかは、非常に重要な決定過程の記録でありながら、一部は改竄されたり、また一部は「怪文書」呼ばわりされたり、全く理解できないような事態が起こってしまった。桜の問題では、出席者名簿が一年未満の保存期間になっていたことから、すぐに廃棄されたとのおかしな答弁が貫かれてしまった。首相は行政に最高の意思決定機関でもあり、その首相がどのように係ったかは、本来きちんと記録に残さなければならないはずが、不都合なものは決して残さない、記録するものは部屋に入れないなど、信じられないことが本書で述べられている。

行政は、圧倒的に前例踏襲主義が常識であり、行政文書は必ず残っているべきものだが、それがないものとして政権が公文書管理のガイドラインを骨抜きにしていることの責任は極めて重い。

今私は、同時進行で太平洋戦争末期の軍法会議にかかわる本を読んでいるのですが、ここでも問題となるのが文書の存在。終戦間際の戦場でどのような理不尽な行為が行われたのか、あるいは太平洋戦争を通して、どんな意思決定がなされていったのかなど、後世に残すべき文書が多々あったはずなのに、軍部は米軍が乗り込んでくる前に、相当数の重要文書を焼却した事実は皆が認めている。言ってみれば、悪事の証拠は自分の身に降りかかってくることを恐れ、なきものとしたのである。正に、安倍政権が行ったことは、戦争を仕掛け、最後の最後まで国民に連戦連勝といった嘘をつきとおした軍部や為政者と同じことである。本書を読んでいて、本当に日本がよい方向に向かえるのか、先人のしたことを反省したり、良いことをまねたりすることができるのか、甚だ怪しい限りである。

今日はこの辺で。