中山七里「どこかでベートーヴェン」

中山七里作、岬洋介主演の学園ものミステリー「どこかでベートーヴェン」読了。中山先生はよっぽどクラシック音楽に造詣が深いのか、岬洋介が演奏するピアノのすばらしさを、これでもかこれでもかと実況中継してくれますが、この演奏中継部分はほとんど私の記憶に残らないので、ほぼ斜め読みで飛ばし、その他の行動描写に集中。

岐阜県の加茂地方の小さな町の高校が舞台。転校してきた岬洋介は17歳のピアノの天才。転校してきたすぐにその容姿や明晰さで女子高生の羨望の的となるが、ピアノ演奏を聴いてからは、その天才ぶりに嫉妬が上回り音楽家の生徒たちから疎外されてしまう。そんな中、嵐のような豪雨が発生し、岬に暴力をふるっていた生徒の一人が殺害される事件が起こる。岬が状況証拠から犯人にされてしまうが、そこから合点先岬洋介の推理が始まるという話。ミステリーとしての出来具合はそれほど褒めたものではないが、岬洋介の人物像がよく描かれ、ピアニストとして、かつ名探偵としての第一歩が踏み出される作品。

それにしても、頭脳明晰でかつピアノの天才でもある岬洋介が、田舎の小さな町の一流とは言えない高校に在籍すること自体が非現実的ではあるが、彼の在籍した半年間で、この高校の生徒たちに与えたインパクトは大きかったでしょう。この音楽家の生徒たちが再び顔を合わせて、みんながどんな人生を歩んでいるのかを想像するのも楽しみで、いつかそんな小説も読みたいものです。

今日はこの辺で。

 

本間龍「転落の記」

ノンフィクションライター本間龍著「転落の記」読了。本間氏については、YouTube番組、「一月万冊」やデモクラシータイムズのコメンテーターとして、最近よく目にし、元博報堂社員で広告業界に詳しいことは知っていたのですが、博報堂社員時代に事件を起こし、懲役経験者であることについては全く知りませんでした。ある時YouTube番組で、「自分の入所中」云々の話をされたことからびっくりして調べたら、確かに詐欺で有罪になり、1年間刑務所に入所していたことがわかり、著書を探して読んだ次第。

画面を見た限り、非常に温厚な方で、とても罪を犯すような方ではないのですが、本書では、副題の「私が起こした詐欺事件、その罪と罰」の通り、彼が犯した犯罪事実が事細かに、正直に語られています。これだけ自分の罪を本でさらすのも、これまた勇気がいったことでしょうが、これが彼の贖罪の気持ちを表す手段だったと思われます。

博報堂北陸支社での営業実績を引っ提げて本社に転勤した本間氏が、担当した顧客からの未収金回収にてこずり、上司や経理部門からせっつかれ、最もやってはいけない「自分の資金で」回収しようと考えたところから、本間氏の詐欺が始まります。未収金1,000万円は自己資金では調達できず、博報堂の株式上場というネタを使って、友人たちから金を借りようとします。友人は簡単に金を出すことを了承するところから泥沼が始まります。最初の二人で1,000万円は用意できるのですが、気持ちが大きくなってしまったのか、愛人は作る、部下にはポケットマネーでごちそうする等々、生活が派手になり、次から次へと友人に声をかけ、更にはサラ金闇金からも金を借りるようになり、ついには会社に入れなくなり、友人から告発されて懲役と相成る。勿論家庭生活は崩壊し、妻と離婚。告発者は二人だけというのは驚きですが、正に詐欺以外の何物でもありません。

終盤は刑務所での用務生活が語られます。受刑者の高齢化が進み、黒羽刑務所の第16工場と呼ばれる高齢者中心の作業所では、認知症が進む老人など、霜の世話もできない受刑者の面倒を見る仕事に従事し、現在の日本の受刑者の実態や、出所後の生活困難なども語られます。

本間氏は、確かに貴重な経験をしたと言えば言えますが、やはり最初の未収金回収についての行動や考えが誤りの出発点。上司に一言いえば、何か懲罰はあるかもしれませんが、会社を辞めるまでには至らなかったはず。家族や友人を失うという大きな代償はなく、また家族や友人が苦しむことはなかったはず。

本間氏は出所後、刑務所の体験をもとに刑務所の実態などの著作や司法行政などの研究も行い、講演などもこなして活躍していますが、友人知人からの借金はすべて返したのか?一日も早く借金を返して、本当の復活を図っていただければと思います。

本書は、まさに転落の記そのものでした。

今日はこの辺で。

中山七里「さよならドビュッシー」

中山七里先生が2008年ごろに書いた長編第二作目で、かつ最高傑作ともいわれる「さよならドビュッシー」読了。中山先生の代表作だけあって、次がすぐ読みたくなる面白さが最後まで続く作品で、文庫410pも長さを感じさせない、メリハリのある作品。2008年度の「このミス」大賞に輝くだけの価値があります。

本の題名にもあるように、クラシック音楽のピアニストが主人公「私」が遭遇する災難と素晴らしいピアノの先生との出会い、私も大火傷を負った放火事件で二人がなくなり、更には私の母親までもが何者かに殺されるという殺人ミステリーがあることから、ミステリー小説に入るのですが、中山先生得意の音楽が一方の主役。「私」は大火傷を負うものの、素晴らしき岬先生に出会ったことから、ピアノを諦めずに、リハビリ特訓に励み、ぐんぐん上達してゆき、ついにはコンクールの代表に選ばれ、そのコンクールを目指して小説のフィナーレに向かって一直線に進んでいく。「私」の心理描写がピアノの鍵盤に合わせて語られる繊細さは、相当のクラシック通でなければ書けない描写。そんな「私」の心理描写がまた素晴らしく飽きさせない。三人が犠牲になるミステリーながら、ミステリー小説というよりも、音楽根性物語的要素が勝った作品ではあるが、最後の最後に用意された、あっと驚くどんでん返しには誰もが騙される。それを早々と気づいていた岬という準主役は、司法試験に合格するも、ピアニストを諦めきれず、軟調に悩まされながらも、一流のピアニストとして認められている贅沢な才能の持ち主。まだ読んでいないのですが、他の中山作品にも表れるキャラクターのようですが、魅力的極まりない。

ドビュッシーの音楽を聴きたくなる小説でありました。

今日はこの辺で。

 

横山秀夫「ノースライト」

寡作作家、横山秀夫6年ぶりに発刊した「ノースライト」読了。前作「64」は、がちがちの警察ものでしたが、本作はミステリーというよりはヒューマンストーリーと言った方がふさわしい作品。勿論、ミステリー要素もあることから、2019年の週刊文春ミステリー国内部門お第一位を獲得しています。週刊文春読者はよっぽど横山作品が好きなようで、「半落ち」、「クライマーズハイ」、「64」に続く4度目のベストワンとなっています。私が最近熱中している中山七里作品が、ベストテンん内にほとんど入っていないのも不思議な現象。

なお、本作は2004年から2006年にかけて雑誌「旅」に連載されたものを全面改稿した作品であり、単行本化にかなり時間がかかっていることが分かります。

主人公はバブル経済崩壊ですっかり仕事がなくなった建築士の青瀬。彼は妻とも離婚し酒におぼれていたが、大学時代の友人で設計事務所を経営する岡嶋に雇われ、何とか立ち直って子供の養育費を稼いで、月一で娘と会う日々を送る。そんな青瀬が、長野県の信濃追分に自宅を立ててほしいという顧客が現れ、「青瀬が住みたいような家を建ててほしい」だけの注文を出し、青瀬が設計し完成、その作品は雑誌でも紹介されるほどに個性的な設計で評価される。北からの光を取り入れた「ノースライト」の家が本作の標題となっている。この家を引き渡したものの、その後この家に顧客の吉野が住んでおらず空き家になっていること、吉野の行方が分からなくなっていることを知り、青瀬は吉野の行方を調べるというミステリーが始まる。この間、岡嶋が美術館の設計コンペの指名を受けるために役人を接待している疑惑や岡嶋の死、青瀬の生い立ちや父親の死、青瀬の離婚理由など、ヒューマンドラマが綴られ、430p近い作品のうち、最後の30ページですべてのミステリーが解き明かされる、収束する展開。吉野が何故青瀬に設計を頼んだかが最大のミステリーだが、その種明かしもそれほど違和感なく読める作品。但し、やはり本作はミステリーで読むのではなく、ヒューマンストーリーとして存在感があるのではないか。特に青瀬と別れた妻ゆかりさんとの関係は、ゆかりさんの何となく魅力的な人間性を描いており、興味深く読みました。

今日はこの辺で。

 

重松清「旧友再会」

久しぶりの重松清の著作「旧友再会」読了。重松清特有の語り口はここでも健在。

本作は、表題作を含む短編5作で構成され、いずれも重松節ともいうべき家族や友人関係が語られます。

「あの年の秋」の舞台は1970年代初め。日中国交回復とパンダ騒動、横井正一さんや小野田寛夫の南方戦地からの帰還など、時代背景を題材にして、ある意味懐かしい思いを抱きました。話の骨子は、認知症初期の母親を半年ほど預かることになった家族を中心に、三世代家族、介護問題等、家族愛が語られます。

表題作「旧友再会」は、地方で小さなタクシー会社を経営する男がタクシー運転中、小中学生時代の同級生で、都会に住む男が客となり、車中の会話を中心に話が進む。運転する男は煩わしく思うのだが、次第に理解するようになる。

「ホームにて」は、鉄道会社系の不動産会社に勤めた父親は定年退職して、駅のそば店に勤めることに。その裏には父親の深い思いがあった。ホロっとする話でした。

「どしゃぶり」は、かつて中学の野球部に所属した中年の旧友三人が集まり、一人が中学校の臨時の野球部監督になり、生徒からの不満を受ける。三人はそれぞれの生活や家族で悩みを抱えながら、野球の結果に話が集約していく。

「ある帰郷」は15頁の小編ながら、妻と離婚する男が子供を男の実家の父母に逢いに行くなかで、父母、息子、子供の心の機微を重松らしい語り口で描きます。

重松清らしい短編小説でありました。

今日はこの辺で。

中山七里「ヒポクラテスの憂鬱」

中山七里先生のヒポクラテスシリーズ第二弾「ヒポクラテスの憂鬱」読了。前作「ヒポクラテスの誓い」同様、非常に面白い作品に出来上がっています。サスペンスにある不合理性も少ない作品。遺体解剖という法医学の分野を扱う難しさを、よくもこれだけ読みやすい作品にしたものだと感心するばかり。光崎教授、キャシー准教授、真琴先生の3人の解剖医と、埼玉県警の小手川刑事という個性的な登場人物のチームワークが微笑ましい限り。

本作は前作同様連作短編集で、各作品の標題が動詞形となっているのは、東野圭吾のシリーズに似ている部分も。

「堕ちる」は16歳の少女アイドルが舞台で躓いて転落してしまう事件。おなかの赤ちゃんをかばって転落する場面は、少女であっても母性なのか。

「熱中する」と書いて「のぼせる」。世間によくあった、子供を車において夫婦でパチンコをして、戻ったら熱中症で死んでいた子供の事件。子供の体に虐待の後もないことから、虐待死ではないとの警察の判断だが、子供の死体を解剖したら胃腸の中に紙がたくさん見つかる。直近でも福岡で5歳の子供に食事を与えず餓死させた親と謎の女が捕まりましたが、悲惨な事件を解剖が解決。

「焼ける」は、とある新興宗教教団で起きた教祖の焼死事件。教祖を溺愛する幹部信者が放火して教祖を殺したと自供するが、実は教祖末期がんであった。

「停まる」は、心臓病を抱える初老の男が突然路上で倒れ死亡。死の直前に死亡保険金を増額していたことから事件性を疑う小手川刑事。でも結果はペースメーカーの誤作動でした。

最も長編の「吊るす」はさすがに読み応えあり。若い女性銀行員が首を吊って自殺。原因は横領のためで、家族は必死に否定するが事件性なく直ぐに荼毘に付されてしまう。これでは法医学の出番はなしやと思いきや、小手川刑事は助言を求めに法医学教室へ。真琴先生の助言から携帯電話記録を復元して、証券会社社員にたどり着く。決定的証拠がなく小手川はさらに証拠を集め、2か月前にも同じような事件があったことを突き止め、同じ男が関係していることを突き止め、憎き犯人を突き詰めていく。真琴はCO中毒死の遺体解剖までやってしまう大胆さ。

「暴く」は、小手川刑事の同期の女性警察官が自殺死。簡単に自殺と判断されるが、小手川はあきらめきれない。何とか解剖して真相を突き止めたいが、組織の予算がそれを許さない状況。光崎教授は遺体の状況から不信を発見し、やっと解剖にたどり着き、ついには組織内のとんでもない奴の悪だくみが明らかに。

6篇とも楽しめましたが、特に「吊るす」と「暴く」が印象に残りました。

今日はこの辺で。

 

中山七里「総理にされた男」

中山七里が政治に切り込んだ作品「総理にされた男」読了。若き宰相、間垣統一郎が急病で生命の危機に瀕し、間垣内閣の樽見官房長官が、間垣総理のそっくりさんの役者、加納慎策を強制的に拉致して、総理の影武者として演じることを要請し、慎策はそれに応じることになり、友人の准教授風間と樽見をバックに総理を演じることになる。

本作では、いくつかの首をかしげざるを得ないシチュエーション、例えば、間垣が二世議員で、相当数の親族がいるはずだが、一切現れない。独身の設定ではあるが、特に間垣が死去しても、親族とのかかわりが全くないなど、不自然場面は多いが、こういった影武者小説では目をつむれば、面白い作品でありました。

慎策はもともと役者で、前座で間垣総理のモノマネを売りにしていることから、周りからは完全に間垣総理として不振が持たれない。そんな中で、政治課題として内閣人事局設置法とアルジェリア日本大使館占拠事件という重大政治課題が扱われる。

本作は2015年発刊で、安倍内閣時代。間垣が安倍首相で、樽見が菅官房長官であったことから、どうしても本作が二人をモチーフにしているような錯覚を覚えてしまうので、内閣人事局については現在負の遺産として扱われているが、この作品では内閣人事局による官僚人事の理想像が語られ、違和感があるのですが、当時の官僚バッシング時代では理想的だったのでしょう。この法案を僅差で勝利し、影武者内閣は高支持率をキープする。

そんな時に発生するのがアルジェリア日本大使館占拠事件。ここで問題になるのが、憲法9条問題。慎策が選んだ解決策が自衛隊による救出作戦。ここでも安倍内閣の安保法制改悪に結びついてしまうのですが、自国民の救出には自衛隊の海外派遣を否定しないストーリーで、安保法制三世のような色彩が気になりましたが、中山先生の、ある意味安倍・菅政権への皮肉を込めているようにも感じました。

今日はこの辺で。