映画「82年生まれ、キム・ジヨン」「フェアウェル」

36日(土)は、ギンレイホールにて映画二題鑑賞。

韓国映画82年生まれ、キム・ジヨン」は、韓国でベストセラーになった小説の映画化。小説は韓国で100万部を突破したとのことで、日本でも出版された。五輪組織委員会の森会長の「女性が入ると会議の時間が長くなる」発言で、改めて日本のジェンダーギャップ度の低さがクローズアップされたが、2019年のジェンダーギャップ指数は0.652で、153か国中121位と惨憺たる状況であるが、韓国も108位と、褒めたものではない。こうした女性差別社会からなかなか抜け出せない状況を、韓国の女性作家が書いた小説が、韓国社会でも問題意識としてあるからベストセラーになったのでしょう。

キム・ジヨンは、大学を卒業して大企業に入社したものの、会社では女性差別が歴然としてあり、大型プロジェクトに参画できない。その理由は、女性は結婚・出産がある為、長期プロジェクトには入れないとの差別的理由。女性で部長となった上司から、自分がどれだけ家族を犠牲にしてきたかを愚痴られる。結局キム・ジヨンは、やさしい男性と結婚し、子供を授かって退社、今は主婦業に専念する身。そんな彼女には、ジェンダーギャップへのストレスがたまりにたまって、精神に異常をきたすようになる。子供が一人だけで、家事にも協力的な夫を持ちながらも、育児と家事負担は大変なもの。夫の理解を得てやりたい仕事に就こうとするものの、夫の母親から大反対にあう始末。

発展目覚ましい韓国にあっても、厳然と存在するジェンダーギャップは、正に日本の状況と同じ。志ある女性が、理不尽な差別によってその貴重な才能を発揮できないのは、なんとも歯がゆいのですが、韓国よりももっとジェンダーギャップが大きい日本にも、キム・ジヨンがたくさん存在していることが想像されます。

中国映画「フェアウェル」は、中国における家族愛を描いた映画。中国系アメリカ人が主人公であるが、今でも残る中国における家族の形を好ましく描いている。

家族みんなから慕われる祖母が末期がんと診断され、家族は本人にはそれを知らせず、普通に接する。主人公の女性は疑問を感じながらも、みんなに合わせて祖母に接する。映画の大きな場面は、主人公のいとこの結婚式であるが、そのにぎやかな結婚式の場面がいかにも中国らしいもの。アメリカに暮らす息子夫婦、結婚するのは日本に住む孫で、結婚相手が日本人。祖母は毎日太極拳に余念がない。グローバル化する中国を映し出す一家族が、どこかで繋がっていることを強調するようなドラマ。

途中眠くなりましたが、何となく魅力的な映画でありました。

今日はこの辺で。

 

中山七里「死にゆく者の祈り」

中山七里先生が、冤罪事件を取り上げた「死にゆく者の祈り」読了。

主人公は浄土真宗僧侶で、教誨師を務める顕真さん。教誨師は受刑者に宗教の教えを説き、受刑者に道徳を教える方。顕真さんは、ある時刑務所でかつての親友と会う。その親友、関根氏は死刑囚であり、顕真さんの命の恩人でもあった。大学の登山部に所属し、剣岳で遭難し、関根に助けられたのだ。関根の人となりをよく知る彼は、関根の冤罪を信じて、僧侶や教誨師の枠を超えて、若き刑事、文屋の協力を得て冤罪を晴らしていくことになる。

文屋刑事のような、組織に逆らいような刑事がいるとも思わないし、僧侶で教誨師の顕真さんが、仏教界の中でこれだけのことができるのか?と、話がよく出来すぎている部分はありますが、教誨師という主人公を据えた斬新生と、予定調和的な話は、どうしても引き込まれてしまいます。特に関根の人生に隠された苦渋、顕真の人生の苦渋など、感動的な話が含まれており、中山先生のストーリーテラーとしての面目躍如でありました。

今日はこの辺で。

映画「私は確信する」

227日(土)、武蔵野館にてフランス映画「私は確信する」鑑賞。フランスで実際にあった妻の行方不明⇒殺害容疑で逮捕され、一審で無罪、検察が威信をかけて控訴したものの、ここでも無罪判決となった事件を描いたフィクション。この事件は、未だに妻の行方が分からず、解決していないとのこと。

妻の名前から「ヴィギエ事件」と呼ばれ、映画では夫の無罪を信じるシングルマザーの奮闘と、弁護士の裁判での主張風景を中心に描くが、題材からして、もう少し面白く作れたのではないかとも思える作品の出来栄え。夫妻とあまり深い関係のないシングルマザーが、あれだけ苦労してまで、何故無実を訴えるのか?と不思議なくらいですが、途中でその理由が、一審で陪審員になっていたことが明かされる。おそらく、陪審員での無罪の印象からの活動なのでしょうが、不自然さは残ります。

この映画でフランスの刑事裁判を知ることができます。一審は日本と同じように、ひな壇に裁判官と陪審員が並び、有罪無罪を陪審員が決める仕組。英米法では一事不再理で、一審で無罪ならば無罪確定ですが、フランスでは検察が控訴できる点では日本と同じ。さらに二審も陪審員が有罪無罪を決める仕組は、日本とは違います。

題名の「私」はシングルマザーを指すようですが、この映画の見せ場は最後の弁護士の最終弁論。日本では「推定無罪」は死語ですが、状況証拠のみの推定有罪を許さなかったフランスの陪審制度の良い点はよく理解できました。

今日はこの辺で。

 

中山七里「護られなかった者たちへ」

中山七里先生の問題作「護れなかった者たちへ」読了。中山先生の小説には、まず駄作はないのですが、本作が最高傑作の部類に入るのではないかという渾身の作品。単なるミステリーではなく、生活保護の問題点を抉り出す作品となっています。生活保護と殺人事件を絡めるという設定が、なかなか思いつかない、見事なストーリーテラーであり、最後のどんでん返しもお見事。真犯人は徐々に浮かんではきますが、それでも無理がないラストです。

生活保護については、このコロナ禍でも大きな問題となっていますが、申請の高い壁は親族照会。大三親等までに扶養義務があるという民法の古臭い規定がある生活保護法を縛っているのですが、核家族化が進んだ現代社会にあっては、何とも陳腐な規定。実際に親族照会して援助を申し出る親族はほんの数%という現実を反映すべきという議論も多く、厚労省の方針も変更しつつはあるものの、予算との関係で窓口では申請拒否・却下が絶えないとのこと。もちろん、不正申請は厳しくチェックすべきですが、ぎりぎりで申請してくる国民を見分ける役人の目が必要。一時話題になった北九州市の申請却下が話題になりましたが、却下数をノルマとするようなことは、憲法上許されません。

本編ですが、宮城県仙台市生活保護窓口である福祉保健事務所の課長が、手足を縛られ、餓死状態で殺害されているのが発見され、更に県会議員となっている元福士兼好事務所勤務の男も同じような状態で殺害される。宮城県警の捜査員が殺された二人の接点を探し出し、殺害動機を推定し、犯人を特定するが、実は真犯人は・・・・。

殺人事件を主題にしたミステリー小説には違いありませんが、主題は今の生活保護制度、更には日本の社会福祉制度の問題点をあぶりだすのが中山先生の目的ではないか。第二次安倍政権以降、アベノミクスと言って自分の成果を自慢して辞めた安部前首相ですが、最低限の文化的な生活を送る権利を有していない人たちは増えています。そんな中、生活保護費の削減政策は続き、「自助・共助・公助」をスローガンとする菅首相の登場で、生活保護がさらに高い壁となる心配がある日本。中山先生は、本書でそんな日本の姿を先取りしたような作品を作ってくれました。

ちなみに、このような社会問題(サラ・クレ問題)とミステリーを絡ませた傑作「火車」を彷彿とさせる小説でありました。

今日はこの辺で。

中山七里「スタート」

中山七里先生が映画製作現場を舞台にしたミステリー小説「スタート」読了。日本映画界のカリスマ監督、大森宗俊が病魔を押して映画を作ることになり、大森家族を集める。しかし、今回はテレビ局が幹事社となる製作委員会方式の映画。早速、テレビ局の看板女優を無理押しで使うようにしたり、チーフ助監督に磁極のディレクターを押し込むなど、大森一家にはやりにくい現場。そんな現場で、関係者が仕掛けたであろう2件n事件が発生、テレビ局プロデューサーと女優がけがをし、最後にはチーフ助監督が殺害される事件まで発生。

ただし、本作は事件のミステリー小説というよりも、映画製作を中心とした話。主人公はセカンド助監督である宮藤映一。彼から見た大森監督の映画作りのすごさや、彼に魅せられて映画作りをするスタッフたちの物語。

中山七里作品はいくつか映画化やドラマ化され、ご本人も映画が好きであることが、本作を読んでいると強く感じます。ミステリーとして読むよりも、あくまでミステリーは刺身のつまとして読んだ方が面白い作品でした。

今日はこの辺で。

総務省幹部官僚違法接待問題と菅義偉首相の責任

「(長男は)今もう40(歳)ぐらいですよ。私は普段ほとんど会ってないですよ。私の長男と結びつけるちゅうのは、いくらなんでもおかしいんじゃないでしょうか。私、完全に別人格ですからね、もう」

これは、2月4日の衆議院予算委員会で、首相の長男が東北新社の社員として接待に同席していたことに対して、顔を強張らせながら、感情をあらわにして言い放った答弁である。

違法接待疑惑が明るみに出たのは、同日発売の週刊文春が報じた記事。昨年10月~12月にかけて4回、総務省の幹部官僚4人がそれぞれ個別に、東北新社から高級飲食店で接待を受け、お土産やタクシー券を手渡している場面が写真付きで報じられた。この時期は、飲食の自粛、不要不急の外出を控えるように、都知事が訴えていた時期とも重なる。その後の総務省の調査で、この4人が2015年以降、12回にわたって接待を受けており、そのすべての席に首相の長男が同席していたことが明らかになった。

国家公務員は、「国家公務員倫理法」で利害関係者からの金品の受領や接待を固く禁じられているが、衛星放送事業は総務省の許認可が必要であり、その事業を大きな柱とする東北新社が利害関係者にあたることを、監督官庁の担当局長が知らないはずがない。

国家公務員倫理法 第3条第3項

職員は、法律により与えられた権限の行使に当たっては、当該権限の行使の対象

となる者からの贈与等を受けること等の国民の疑惑や不信を招くような行為をし

てはならないこと。 

週刊誌報道後国会での追及が始まったが、与党は4人の官僚のうち上位2人の予算委員会出席を拒否、秋本情報流通行政局長と湯本審議官が答弁することになったが、信じられないような答弁が繰り返された。

東北新社が利害関係者とは思っていなかった」

東北新社の事業や衛星放送、CS・BSの話は出なかったと記憶している」

「東北出身者の集まりだった」、「忘年会だった」等々。 

 こうした虚偽答弁を覆すべく出てきたのが二発目の文春砲。秋本局長接待時の会話の録音テープが報道され、今までの答弁が虚偽であったことも明らかになった。

 総務省は、2月4日の報道以来、省内調査を徹底的にやると言いながら、武田総務大臣は調査の途中にも拘らず、「行政がゆがめられたことは一切ない」と言い切るなど、身内の調査の甘さが図らずも露呈した。 

 上述の通り、今回の違法接待は極めて分かりやすい構図で、贈収賄の疑いも濃厚な国家公務員倫理法違反であるが、総務省は早々に二人の更迭人事を行い、国会に出席させない戦術をとることが懸念され、更には4人の官僚の懲戒処分で終結を図ることも予想される。

しかし、この問題の核心は、何故幹部官僚がリスクを冒してまで易々と接待に応じていたかである。菅首相は、小泉政権時に総務副大臣となり、総務省人事の権限を握ったとされ、第一次安倍政権では総務大臣に就任、第二次安倍政権でも官房長官として総務省に絶大な影響力を持ってきた。そんな菅氏が総務大臣就任時、大臣の政務秘書官に当時定職がなかった25歳の長男を起用したのである。その後、菅氏と同郷である東北新社創業者に依頼して、同社に入社したとされ、いまでは40歳にして本社部長兼子会社「囲碁・将棋チャンネル」取締役を務める。こうした経緯を考えると、「自助」を重視する菅氏が、身内に対しては自分の地位と権力を使って「公助」する構図が浮かび上がる。「息子は別人格」などと、堂々と言える資格はないと考えるのが庶民の感覚である。

森友問題における佐川理財局長と同じく、総務官僚もまた父親の影響力を恐れて、息子の誘いを断ることができず、リスクを冒して接待に応じていた可能性は否定できない。

菅首相は、東北新社社長から個人献金として2012年~2018年の間で500万円受領しており、パーティー券も受領を肯定している。更には、会食も行っているが、時期については記憶が定かでない旨、曖昧な回答しかしていない。

この接待疑惑問題は、官僚の贈収賄や倫理問題だけではなく、首相という最高位の公務員の倫理、または犯罪が問われているといっても過言ではない。

菅首相には是非とも憲法第15条第2項を再認識してもらい、責任を明らかにしてほしい。

「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。」

中山七里「ヒポクラテスの誓い」

サスペンスのベストセラー作家、中山七里のヒポクラテスシリーズ第一作「ヒポクラテスの誓い」読了。ヒポクラテスは、古代ギリシャの医者で、いわゆる西洋医学の父ともいわれる偉人。それまで医学は、迷信や呪術と深くかかわってきましたが、ヒポクラテスは医学をそれらを切り離し、臨床と経験を重んじ、更には倫理性と客観性を重視する科学へと導いた医者。そんなヒポクラテスを署名に持ってきたことからわかるように、本書は医者を主人公とした物語。それも、法医学専門の浦和医大教授、光崎藤次郎と、彼を取り巻く研修医や刑事の物語。5編からなる連作短編で、最後の作品で全4編と結びつく巧妙なストーリーを考えるところはころはさすが。

光崎教授は、良く出入りしている若い古手川刑事に、既往症を持つ支社だ出た場合は逐一報告せよと命じ、たくさんの解剖を行う。5編に登場する死者には、解剖しなければならないような不審死には該当しないものの、光崎の解剖によって、死の真相が明らかになる。医者として、生者も死者も差別することなく向き合うという信念のもと、真実を追求していく姿と巧みなストーリーテラーで、読むものを離さない魅力あふれる作品でありました。

今日はこの辺で。